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中島悟 wikipedia より引用 » [ 引用元 ]
中嶋 悟(なかじま さとる、 1953年2月23日 - )は、元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。愛知県岡崎市出身。
日本人初のF1フルタイムドライバー。
現在は株式会社日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長も務める。
名城大学附属高等学校卒業後、実兄経営のガソリンスタンドで働きながら本格的なレース活動を開始する。1973年の鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。1975年にはFL500に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。
1977年には当時「最強チーム」との呼び声の高かったヒーローズレーシングより鈴鹿F2/全日本F2000選手権とFJ1300に参戦、特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3選手権にスポット参戦する。
1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍し、富士GCシリーズでチャンピオンを獲得。1981年、1982年には全日本F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、その後は資金不足に悩まされ成績は低迷した。そのため生沢徹と確執が生まれ1983年にi&iレーシングから離脱。自らの会社中嶋企画を設立するため、破格の契約金を提示したハラダレーシングに移籍をするが、チーム体制が整っておらず同年はチャンピオンを逃した。
1984年にヒーローズレーシングに復帰。そのときに車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなうという当時としては例のない契約をした。1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する(1981年、1982年、1984年については鈴鹿F2とのダブルタイトル)など、当時日本国内のトップカテゴリーには敵がいない状態であった。
その一方で、1984年からはその開発能力の高さを認められてホンダのF1テストドライバーを務めるようになり、ウィリアムズのマシンをドライブするようになった。後のF1デビュー後にこの際の経験が生かされることとなった。
1985年と1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦。特に1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス86Cを駆り予選トップタイムをマークするが、Tカーでのタイムのため無効となり「幻のポールポジション」となったことは未だにレースファンの間で語り草となっている。
1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000にもフルシーズン参戦し、慣れないコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、最高位4位を含む数回の入賞を果たした。
F1参戦以降はホンダとの関係を密にしているためホンダとの結びつきのイメージが強い中嶋だが、国内時代は必ずしもホンダ一辺倒だったわけではない。デビューからF2参戦までの間は、マツダ系ディーラーの碧南マツダの支援を受け、ファミリアやサバンナRX-3などで多くのレースに参戦した。
また全日本F2でホンダワークスとして参戦するのと並行して、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC JAPANなどでは、トヨタ系のマシンも数多くドライブしている。
一方で日産との関係は薄く、1979年のFPで星野一義の代役として数戦に出場した程度である。一説にはこのFP参戦時に、長谷見昌弘とチームオーダーの件で対立したことが中嶋から日産を遠ざけた一因といわれている。しかし、中嶋本人は『ホリデーオート』誌上で、日産・フェアレディZを思い出に残る車にあげていた(最初の愛車がフェアレディZだった)。
※参考資料:『F1走る魂』(海老沢泰久著、文藝春秋)
34歳にして日本人初の、アジア人としてタイのプリンス・ビラに次ぐフルタイムF1ドライバーとして、1987年の開幕戦(ブラジルGP)でロータス・ホンダよりデビューを果たした。1991年で引退するまでの5年間、ホンダと初年度のチームメイトであったアイルトン・セナと共にバブル景気に沸く日本にF1ブームを巻き起こした。
F1での成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/1988年メキシコGP・日本GP)、決勝最高位4位(2回/1987年イギリスGP・1989年オーストラリアGP)、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。
ホンダやエプソンをはじめとしたスポンサーのバックアップや高いマシンの開発能力が認められたこともあり、有力チームで参戦を続けることができた。年齢的なことやレース環境の違いもありトップクラスの選手とのレベルの差は大きく、しかも有力チームとはいえ、1987年を除いては優勝するポテンシャルを持っていたわけでもなかったためにF1で優勝を飾ることはできなかったが、先述のオーストラリアGPでのファステストラップを見せるなど、「あと数年F1デビューが早ければ」と惜しむ声も多い。しかしながら、日本人にF1への門戸を開いた功績は大きく、日本のモータースポーツ史に残るだけでなく、パイオニア的存在として記憶に残るF1ドライバーの一人である。
1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、信頼性が低いアクティブサスペンションに苦しめられ予選で中段になる場面が多く見られた他、マシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバーの仲間入りを果たした。
4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車が1位から4位を占めた一角を担った他、地元の日本GPでも、「中嶋返し」や「大外刈り」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。この年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。 なお、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りでアクティブサスペンションの実戦使用を中止したロータスだったが、これまでアクティブサスペンション開発に注力してこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。
初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンのネルソン・ピケに変わった。開幕戦のブラジルGPで6位に入賞したものの、マシンのバランスの悪さや度重なるマシントラブルにより、これ以降は予選でセナに並ぶタイムをたたき出したほか、決勝レースでピケを上回ることもあったものの、入賞することなくシーズンを終えた。この年はコースに慣れたこともあり、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つメキシコGPや日本GPにおける予選6位など度々予選トップ10に食い込む活躍を見せ(その反面、モナコGPやデトロイトGPでは予選落ちを喫している)、決勝でもトップ10内フィニッシュを繰り返した。
しかし、当時のロータスは中嶋はセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていた。なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えはチームオーダーによるものではなく、シフトミスの結果であったと中嶋は自らのミスを認めている。
日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位(5位のピケと同タイムだが、先にタイムを出したピケが上位となる)を獲得するも、ポールポジションのセナとともにスタートでエンスト。大きく出遅れたが、その後の鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた(鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、F2時代にも何度もミスしたことがある)。
シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。実際にアロウズと契約寸前まで行っていたが、スポンサーの問題で最終合意には至らなかった。そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなく、チームスタッフとの関係も良好な上、ホンダとの強力なコネクションに加え、EPSONやPIAAといったスポンサーを持つ中嶋と1年間の契約延長を行った。契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。
この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったために、非力なカスタマー仕様のジャッド(ティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦ではフランスGPで投入されただけに止まった)にエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。チームメイトのピケはシーズン中盤に連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあったが、シーズン全般的に予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かった。ベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、結局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。これは名門として長い歴史を誇るロータス史上初の屈辱であった。 なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。
しかし、豪雨となった最終戦オーストラリアGPでは、予選下位からのスタートだったもののレース序盤から次々順位を上げ、レース終盤にはウィリアムズ・ルノーをドライブする3位のリカルド・パトレーゼを追い回した。スリップストリームに入るとエンジンが(前のパトレーゼのマシンが巻き上げた)水煙を吸い込みミスファイアを起こしたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかったが、ファステストラップ(レース中の最速周回記録)を記録し、デビューイヤーのイギリスGP以来となる自己最高位の4位に入賞した(後述「雨のナカジマ」)。
前年のシーズン中より、アロウズ、ティレル、オニクスなど複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった。非力なフォード(コスワースDFR)エンジンを使用するため、前年に続き苦戦を強いられることが予想されたものの、開幕戦のアメリカGPで6位入賞を果たした他、日本GPでの6位入賞を含む3回の入賞を果たすなどまずまずの成績を残した。しかし、シーズン中盤に6連続リタイアを喫するなど、度重なるマシントラブルに見舞われたこともあり、シーズンを通して完走がわずか5回という完走率の低いシーズンとなった。
また、チームメイトのジャン・アレジも2位表彰台2回を含む3回の入賞を果たすなど、マシンのバランスのよさを生かした結果を出したが、中嶋同様に完走率の低いシーズンを送った。なお、この年の第3戦サンマリノGPでデビューしたティレル019は、初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋本人は前年型のティレル018のハンドリング特性をより好んでいたという(本人曰く「確かに018よりタイムは出るんだけど、なんか乗りにくいんだよねぇ」)。
チームオーナーのケン・ティレルは、ロングランでのタイヤテストや決勝用タイヤの皮剥きのための走行等、地味ながらもチームに不可欠な作業を黙々とこなす点(アレジはこのような作業を非常に嫌った)を始め、開発能力や確かなセッティング能力などを理由に挙げ、中嶋に対して高い評価を与えていた。[1]
昨年に続きティレルでの参戦となった。当時、高い戦闘力を持ち、かつ前年マクラーレンにダブル・タイトルをもたらしたホンダV10エンジンを搭載することが決まっていたため、前年以上の好成績を収めることが期待された。
しかしながら、フォードV8エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、パワーの飛躍的な増加から駆動系トラブルも頻発した。それでもサンマリノGPではリタイヤするまで4位を走行するなど、シーズン序盤こそ期待を抱かせる走りも見せたが、シーズンが進むにつれてティレル020の相対的な戦闘力は低下し、結局シーズンが終ってみれば入賞は開幕戦のアメリカGPの5位(ちなみに4位はチームメイトのモデナ、6位はラルースの鈴木亜久里)のみという結果に終わった。
この年のティレル失速の原因として、ホンダV10エンジンによるマシンバランス悪化という根本原因の他、ピレリタイヤの開発主導権をV8エンジン搭載のベネトンに握られてしまい、V10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかったこと(その為レース後半でタイヤがたれると瞬く間に中嶋、モデナともに順位を落とすシーンが良くみられた)と、デザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイトがシーズン序盤にチームを離脱したためにマシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。また、中嶋本人は体力と視力の衰えに相当悩んでいた。
第9戦のドイツGPで、このシーズンを最後に引退することを発表。当時未曾有のF1ブームに沸く日本のファンに衝撃を与えた。なお、引退発表直後に行われたドイツGP予選では、このシーズンで唯一チームメイトのモデナより速い予選通過タイムを記録している。その年の日本GPが行われた鈴鹿サーキットはまさに中嶋一色に染まり、日の丸とともに「ありがとう中嶋」、「やらまいか中嶋」などの横断幕がサーキットを埋め、最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたものの、残念ながらステアリングのトラブルにより車が曲がらず、クラッシュしてリタイアという結果に終わった。
引退レースとなった最終戦のオーストラリアGPは、4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ雨のアデレードとなり期待を持たせたが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンをコンクリートウォールにヒットさせてしまったため26台中最初にリタイヤを喫し、F1レーサーとしてのキャリアを終えた。
日本国内の各選手権で活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンの間からは「雨のナカジマ」と呼ばれていた。
ロータスでの最後のレースとなった、1989年の最終戦オーストラリアGP(アデレード市街地コース)では、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われチャンピオン争いを行うセナや1987年のワールドチャンピオンのピケなど多くの選手がクラッシュ。最終戦とあって年間順位がほぼ確定していることもあり、セナとチャンピオンを争っていたものの、ほぼチャンピオンを確定していたプロストは危険なずぶ濡れのコースで無理に走らず棄権するなど(プロスト、ピケ、セナ、マンセルとワールドチャンピオン達はすべて完走できず)最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドで上位のマシンを次々と抜き去る見事な走りを見せ、日本人ドライバーとして初の、そしてチーム・ロータスとしては最後のファステストラップ(1分38秒480、64周目)を記録した。
残り10周を切った時点で、3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず(前述の通り、水煙の影響でエンジンがミスファイアを起こしていた)、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋はまるでセナのように耳栓を格好良く放り投げ、当時の中嶋担当エンジニアであったティム・デンシャム(現・ルノーF1チーフデザイナー)と抱擁した。
後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった」と答えている。また、「中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由である」という評価も受けている。毒舌で有名なイギリスのBBCの名物解説者であり、それまで中嶋に対して高い評価を与えたことのなかった元ワールドチャンピオンのジェームス・ハントは、後の1991年シーズン前に「(パフォーマンスの高いホンダエンジンを搭載したマシンをドライブしても)中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」とも語っていた。
その後の1991年のサンマリノグランプリでも上位が潰れる中、予選10位より一時4番手まで順位を上げ、マクラーレンのアイルトン・セナ、ゲルハルト・ベルガー及び3番手を走るステファノ・モデナと共にホンダエンジン搭載車が1~4位独占かというところで駆動系トラブルにより惜しくもリタイヤしたが、このときもレース前半はウエットコンディションであった。
蛇足であるが「スキルはあるが体力が無い」という事実は、30代半ばという異例に遅いF1デビューを果たした中嶋を常に悩ませ続け、これを裏づけるように、1991年当時直線とシケインで構成されていたドイツ・ホッケンハイムリンクでの予選(ドライ)でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、当時ティレルのテクニカルディレクターであったハーベイ・ポスルスウェイトは「直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い」とコメントを出している。
全日本F3000選手権(現・フォーミュラ・ニッポン)や全日本GT選手権(現・SUPER GT)などに参戦する自身のチーム・ナカジマレーシング(中嶋企画)の監督として現場を率いている。同チームは、高木虎之介・松田次生・小暮卓史といったドライバーを輩出しており、若手ドライバーの登用に積極的である。
また、鈴鹿サーキットレーシングスクール(「SRS-K」「SRS-F」)の校長も務め、これまで佐藤琢磨・松田次生・松浦孝亮などを同スクールより送り出している。
2004年にはフォーミュラ・ニッポンを運営する株式会社日本レースプロモーションの会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポンの建て直しにも本格的に乗り出した。
※参考資料 - 『Racing On』(ニューズ出版) 2007年10月号・特集「中嶋悟」
あけみ夫人との間に長男・中嶋一貴と次男・中嶋大祐の2人の子供を授かり、共に現在レーシングドライバーとなっている。
中嶋 大祐(なかじま だいすけ、1989年1月29日 - 、血液型:A型)は、2004年より全日本カート選手権・ICAクラスに参戦、2005年にシリーズランキング4位となる。2006年、SRS-Fに入校。2007年はFCJ(カーナンバー8)に参戦し、2008年は全日本F3選手権に戸田レーシングから参戦する(マシンはダラーラF308・無限MF204C)。大祐は兄とは違い、父と同じくホンダとエプソンのサポートを受けレース活動を行なっている。
F1ブームが頂点に達した1990年11月21日、キティレコーズ(現:ユニバーサルミュージック)から「悲しき水中翼船」で歌手デビュー。作詞・作曲・プロデュースは東京バナナボーイズ。
中嶋本人は歌うことに抵抗があったが、スポンサーであるエプソンのCMソングであったことと、テレビ番組など人前で歌わないことを条件に承諾したという。また、レコーディング直前まで自身が歌うことを知らされず、「僕は前もって言われると考えちゃってほとんど“NO”って言っちゃうんだよ。その事をマネージャーが知っているから、直前まで隠したんだよね。」と、『F1ポールポジション』(フジテレビ)に出演した際に語っていた。
折からのF1ブームや話題性、テレビCMでの大量オンエアもあり、多くのプロの歌手を押しのけオリコンで最高20位にランクインするスマッシュヒットとなった。
中島悟 はてなキーワード より引用 » [ 引用元 ]
→中嶋悟
Keyword : 中嶋悟中嶋 悟(なかじま さとる、 1953年2月23日 - )は、元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。愛知県岡崎市出身。
日本人初のF1フルタイムドライバー。
現在は株式会社日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長も務める。
名城大学附属高等学校卒業後、実兄経営のガソリンスタンドで働きながら本格的なレース活動を開始する。1973年の鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。1975年にはFL500に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。
1977年には当時「最強チーム」との呼び声の高かったヒーローズレーシングより鈴鹿F2/全日本F2000選手権とFJ1300に参戦、特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3選手権にスポット参戦する。
1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍し、富士GCシリーズでチャンピオンを獲得。1981年、1982年には全日本F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、その後は資金不足に悩まされ成績は低迷した。そのため生沢徹と確執が生まれ1983年にi&iレーシングから離脱。自らの会社中嶋企画を設立するため、破格の契約金を提示したハラダレーシングに移籍をするが、チーム体制が整っておらず同年はチャンピオンを逃した。
1984年にヒーローズレーシングに復帰。そのときに車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなうという当時としては例のない契約をした。1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する(1981年、1982年、1984年については鈴鹿F2とのダブルタイトル)など、当時日本国内のトップカテゴリーには敵がいない状態であった。
その一方で、1984年からはその開発能力の高さを認められてホンダのF1テストドライバーを務めるようになり、ウィリアムズのマシンをドライブするようになった。後のF1デビュー後にこの際の経験が生かされることとなった。
1985年と1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦。特に1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス86Cを駆り予選トップタイムをマークするが、Tカーでのタイムのため無効となり「幻のポールポジション」となったことは未だにレースファンの間で語り草となっている。
1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000にもフルシーズン参戦し、慣れないコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、最高位4位を含む数回の入賞を果たした。
F1参戦以降はホンダとの関係を密にしているためホンダとの結びつきのイメージが強い中嶋だが、国内時代は必ずしもホンダ一辺倒だったわけではない。デビューからF2参戦までの間は、マツダ系ディーラーの碧南マツダの支援を受け、ファミリアやサバンナRX-3などで多くのレースに参戦した。
また全日本F2でホンダワークスとして参戦するのと並行して、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC JAPANなどでは、トヨタ系のマシンも数多くドライブしている。
一方で日産との関係は薄く、1979年のFPで星野一義の代役として数戦に出場した程度である。一説にはこのFP参戦時に、長谷見昌弘とチームオーダーの件で対立したことが中嶋から日産を遠ざけた一因といわれている。しかし、中嶋本人は『ホリデーオート』誌上で、日産・フェアレディZを思い出に残る車にあげていた(最初の愛車がフェアレディZだった)。
※参考資料:『F1走る魂』(海老沢泰久著、文藝春秋)
34歳にして日本人初の、アジア人としてタイのプリンス・ビラに次ぐフルタイムF1ドライバーとして、1987年の開幕戦(ブラジルGP)でロータス・ホンダよりデビューを果たした。1991年で引退するまでの5年間、ホンダと初年度のチームメイトであったアイルトン・セナと共にバブル景気に沸く日本にF1ブームを巻き起こした。
F1での成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/1988年メキシコGP・日本GP)、決勝最高位4位(2回/1987年イギリスGP・1989年オーストラリアGP)、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。
ホンダやエプソンをはじめとしたスポンサーのバックアップや高いマシンの開発能力が認められたこともあり、有力チームで参戦を続けることができた。年齢的なことやレース環境の違いもありトップクラスの選手とのレベルの差は大きく、しかも有力チームとはいえ、1987年を除いては優勝するポテンシャルを持っていたわけでもなかったためにF1で優勝を飾ることはできなかったが、先述のオーストラリアGPでのファステストラップを見せるなど、「あと数年F1デビューが早ければ」と惜しむ声も多い。しかしながら、日本人にF1への門戸を開いた功績は大きく、日本のモータースポーツ史に残るだけでなく、パイオニア的存在として記憶に残るF1ドライバーの一人である。
1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、信頼性が低いアクティブサスペンションに苦しめられ予選で中段になる場面が多く見られた他、マシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバーの仲間入りを果たした。
4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車が1位から4位を占めた一角を担った他、地元の日本GPでも、「中嶋返し」や「大外刈り」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。この年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。 なお、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りでアクティブサスペンションの実戦使用を中止したロータスだったが、これまでアクティブサスペンション開発に注力してこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。
初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンのネルソン・ピケに変わった。開幕戦のブラジルGPで6位に入賞したものの、マシンのバランスの悪さや度重なるマシントラブルにより、これ以降は予選でセナに並ぶタイムをたたき出したほか、決勝レースでピケを上回ることもあったものの、入賞することなくシーズンを終えた。この年はコースに慣れたこともあり、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つメキシコGPや日本GPにおける予選6位など度々予選トップ10に食い込む活躍を見せ(その反面、モナコGPやデトロイトGPでは予選落ちを喫している)、決勝でもトップ10内フィニッシュを繰り返した。
しかし、当時のロータスは中嶋はセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていた。なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えはチームオーダーによるものではなく、シフトミスの結果であったと中嶋は自らのミスを認めている。
日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位(5位のピケと同タイムだが、先にタイムを出したピケが上位となる)を獲得するも、ポールポジションのセナとともにスタートでエンスト。大きく出遅れたが、その後の鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた(鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、F2時代にも何度もミスしたことがある)。
シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。実際にアロウズと契約寸前まで行っていたが、スポンサーの問題で最終合意には至らなかった。そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなく、チームスタッフとの関係も良好な上、ホンダとの強力なコネクションに加え、EPSONやPIAAといったスポンサーを持つ中嶋と1年間の契約延長を行った。契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。
この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったために、非力なカスタマー仕様のジャッド(ティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦ではフランスGPで投入されただけに止まった)にエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。チームメイトのピケはシーズン中盤に連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあったが、シーズン全般的に予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かった。ベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、結局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。これは名門として長い歴史を誇るロータス史上初の屈辱であった。 なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。
しかし、豪雨となった最終戦オーストラリアGPでは、予選下位からのスタートだったもののレース序盤から次々順位を上げ、レース終盤にはウィリアムズ・ルノーをドライブする3位のリカルド・パトレーゼを追い回した。スリップストリームに入るとエンジンが(前のパトレーゼのマシンが巻き上げた)水煙を吸い込みミスファイアを起こしたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかったが、ファステストラップ(レース中の最速周回記録)を記録し、デビューイヤーのイギリスGP以来となる自己最高位の4位に入賞した(後述「雨のナカジマ」)。
前年のシーズン中より、アロウズ、ティレル、オニクスなど複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった。非力なフォード(コスワースDFR)エンジンを使用するため、前年に続き苦戦を強いられることが予想されたものの、開幕戦のアメリカGPで6位入賞を果たした他、日本GPでの6位入賞を含む3回の入賞を果たすなどまずまずの成績を残した。しかし、シーズン中盤に6連続リタイアを喫するなど、度重なるマシントラブルに見舞われたこともあり、シーズンを通して完走がわずか5回という完走率の低いシーズンとなった。
また、チームメイトのジャン・アレジも2位表彰台2回を含む3回の入賞を果たすなど、マシンのバランスのよさを生かした結果を出したが、中嶋同様に完走率の低いシーズンを送った。なお、この年の第3戦サンマリノGPでデビューしたティレル019は、初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋本人は前年型のティレル018のハンドリング特性をより好んでいたという(本人曰く「確かに018よりタイムは出るんだけど、なんか乗りにくいんだよねぇ」)。
チームオーナーのケン・ティレルは、ロングランでのタイヤテストや決勝用タイヤの皮剥きのための走行等、地味ながらもチームに不可欠な作業を黙々とこなす点(アレジはこのような作業を非常に嫌った)を始め、開発能力や確かなセッティング能力などを理由に挙げ、中嶋に対して高い評価を与えていた。[1]
昨年に続きティレルでの参戦となった。当時、高い戦闘力を持ち、かつ前年マクラーレンにダブル・タイトルをもたらしたホンダV10エンジンを搭載することが決まっていたため、前年以上の好成績を収めることが期待された。
しかしながら、フォードV8エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、パワーの飛躍的な増加から駆動系トラブルも頻発した。それでもサンマリノGPではリタイヤするまで4位を走行するなど、シーズン序盤こそ期待を抱かせる走りも見せたが、シーズンが進むにつれてティレル020の相対的な戦闘力は低下し、結局シーズンが終ってみれば入賞は開幕戦のアメリカGPの5位(ちなみに4位はチームメイトのモデナ、6位はラルースの鈴木亜久里)のみという結果に終わった。
この年のティレル失速の原因として、ホンダV10エンジンによるマシンバランス悪化という根本原因の他、ピレリタイヤの開発主導権をV8エンジン搭載のベネトンに握られてしまい、V10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかったこと(その為レース後半でタイヤがたれると瞬く間に中嶋、モデナともに順位を落とすシーンが良くみられた)と、デザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイトがシーズン序盤にチームを離脱したためにマシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。また、中嶋本人は体力と視力の衰えに相当悩んでいた。
第9戦のドイツGPで、このシーズンを最後に引退することを発表。当時未曾有のF1ブームに沸く日本のファンに衝撃を与えた。なお、引退発表直後に行われたドイツGP予選では、このシーズンで唯一チームメイトのモデナより速い予選通過タイムを記録している。その年の日本GPが行われた鈴鹿サーキットはまさに中嶋一色に染まり、日の丸とともに「ありがとう中嶋」、「やらまいか中嶋」などの横断幕がサーキットを埋め、最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたものの、残念ながらステアリングのトラブルにより車が曲がらず、クラッシュしてリタイアという結果に終わった。
引退レースとなった最終戦のオーストラリアGPは、4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ雨のアデレードとなり期待を持たせたが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンをコンクリートウォールにヒットさせてしまったため26台中最初にリタイヤを喫し、F1レーサーとしてのキャリアを終えた。
日本国内の各選手権で活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンの間からは「雨のナカジマ」と呼ばれていた。
ロータスでの最後のレースとなった、1989年の最終戦オーストラリアGP(アデレード市街地コース)では、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われチャンピオン争いを行うセナや1987年のワールドチャンピオンのピケなど多くの選手がクラッシュ。最終戦とあって年間順位がほぼ確定していることもあり、セナとチャンピオンを争っていたものの、ほぼチャンピオンを確定していたプロストは危険なずぶ濡れのコースで無理に走らず棄権するなど(プロスト、ピケ、セナ、マンセルとワールドチャンピオン達はすべて完走できず)最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドで上位のマシンを次々と抜き去る見事な走りを見せ、日本人ドライバーとして初の、そしてチーム・ロータスとしては最後のファステストラップ(1分38秒480、64周目)を記録した。
残り10周を切った時点で、3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず(前述の通り、水煙の影響でエンジンがミスファイアを起こしていた)、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋はまるでセナのように耳栓を格好良く放り投げ、当時の中嶋担当エンジニアであったティム・デンシャム(現・ルノーF1チーフデザイナー)と抱擁した。
後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった」と答えている。また、「中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由である」という評価も受けている。毒舌で有名なイギリスのBBCの名物解説者であり、それまで中嶋に対して高い評価を与えたことのなかった元ワールドチャンピオンのジェームス・ハントは、後の1991年シーズン前に「(パフォーマンスの高いホンダエンジンを搭載したマシンをドライブしても)中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」とも語っていた。
その後の1991年のサンマリノグランプリでも上位が潰れる中、予選10位より一時4番手まで順位を上げ、マクラーレンのアイルトン・セナ、ゲルハルト・ベルガー及び3番手を走るステファノ・モデナと共にホンダエンジン搭載車が1~4位独占かというところで駆動系トラブルにより惜しくもリタイヤしたが、このときもレース前半はウエットコンディションであった。
蛇足であるが「スキルはあるが体力が無い」という事実は、30代半ばという異例に遅いF1デビューを果たした中嶋を常に悩ませ続け、これを裏づけるように、1991年当時直線とシケインで構成されていたドイツ・ホッケンハイムリンクでの予選(ドライ)でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、当時ティレルのテクニカルディレクターであったハーベイ・ポスルスウェイトは「直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い」とコメントを出している。
全日本F3000選手権(現・フォーミュラ・ニッポン)や全日本GT選手権(現・SUPER GT)などに参戦する自身のチーム・ナカジマレーシング(中嶋企画)の監督として現場を率いている。同チームは、高木虎之介・松田次生・小暮卓史といったドライバーを輩出しており、若手ドライバーの登用に積極的である。
また、鈴鹿サーキットレーシングスクール(「SRS-K」「SRS-F」)の校長も務め、これまで佐藤琢磨・松田次生・松浦孝亮などを同スクールより送り出している。
2004年にはフォーミュラ・ニッポンを運営する株式会社日本レースプロモーションの会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポンの建て直しにも本格的に乗り出した。
※参考資料 - 『Racing On』(ニューズ出版) 2007年10月号・特集「中嶋悟」
あけみ夫人との間に長男・中嶋一貴と次男・中嶋大祐の2人の子供を授かり、共に現在レーシングドライバーとなっている。
中嶋 大祐(なかじま だいすけ、1989年1月29日 - 、血液型:A型)は、2004年より全日本カート選手権・ICAクラスに参戦、2005年にシリーズランキング4位となる。2006年、SRS-Fに入校。2007年はFCJ(カーナンバー8)に参戦し、2008年は全日本F3選手権に戸田レーシングから参戦する(マシンはダラーラF308・無限MF204C)。大祐は兄とは違い、父と同じくホンダとエプソンのサポートを受けレース活動を行なっている。
F1ブームが頂点に達した1990年11月21日、キティレコーズ(現:ユニバーサルミュージック)から「悲しき水中翼船」で歌手デビュー。作詞・作曲・プロデュースは東京バナナボーイズ。
中嶋本人は歌うことに抵抗があったが、スポンサーであるエプソンのCMソングであったことと、テレビ番組など人前で歌わないことを条件に承諾したという。また、レコーディング直前まで自身が歌うことを知らされず、「僕は前もって言われると考えちゃってほとんど“NO”って言っちゃうんだよ。その事をマネージャーが知っているから、直前まで隠したんだよね。」と、『F1ポールポジション』(フジテレビ)に出演した際に語っていた。
折からのF1ブームや話題性、テレビCMでの大量オンエアもあり、多くのプロの歌手を押しのけオリコンで最高20位にランクインするスマッシュヒットとなった。
中島悟 はてなキーワード より引用 » [ 引用元 ]
→中嶋悟






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