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アップルコンピュータ wikipedia より引用 » [ 引用元 ]
アップル (Apple Inc.、NASDAQ: AAPL) 社は、アメリカ合衆国カリフォルニア州クパティーノに本社を置く、デジタル家電製品と関連するソフトウェア製品を設計・製造する多国籍企業である。
ハードウェア製品として、パーソナルコンピュータのMacintosh(Mac)シリーズ、携帯音楽プレーヤーのiPodシリーズ、iPhone、ソフトウェア製品としては、オペレーティングシステムのMac OS Xや、統合ソフトウェアのiLifeなどの開発・販売を行っている。
アップルは、直営店(Apple Store)およびオンラインストアにおいてハードウェアとソフトウェアの販売を行っている他、iTunes Storeでは、音楽、オーディオブック、ゲーム、ミュージックビデオ、テレビ番組、映画、と広範囲のデジタルコンテンツのダウンロード販売を提供している。
アップルは、専門の音楽・映画産業向けソフトウェア製品の大手の提供元でもある。アップルのプロフェッショナルアプリケーションは、Final Cut Pro、Logic Pro、Shake、Final Cut Studioなどがある。
同社は、1977年1月3日に設立されて以来、“Apple Computer, Inc.”を名乗っていたが、2007年1月9日 (PST) に事業内容を反映させ、現社名の“Apple Inc.”に改称した[4]。
1974年、大学を中退しアタリの技師をしていたスティーブ・ジョブズとヒューレット・パッカードに勤務していたスティーブ・ウォズニアック(以下ウォズ)の2人は、地元のコンピュータマニアの集まりであったホームブリュー・コンピュータ・クラブ(「自家醸造」コンピュータ・クラブ)に参加するようになった。
1975年にインテルがi8080をリリースすると、Altair(アルテア)8080というコンピュータ・キットが早速発売されるようになり人気を博した。ウォズは、8080より、MC6800の流れを汲むMOSテクノロジー社のMOS 6502の方が安く、しかも簡易な回路のコンピュータができると確信し、1975年10月から半年間かけて設計、1976年3月に最初のプロト機を完成させた。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行った。ジョブズは自分達で売る事を考えていたが、ウォズはヒューレット・パッカードの社員であるが故に「開発した製品を見せなければならない」と上司にこの機械を見せるが断られ、自分達で売り出すこととなった。
ジョブズは、マウンテンバレーにあったコンピュータショップのバイトショップのオーナーであったポール・テレルに基板を見せた。テレルは非常に強い興味を持ち、30日以内に50台を納品できたら、現金で代金を支払うと提案する。ジョブズは愛車のワーゲンバスを1500ドルで売り、ウォズはヒューレット・パッカードのプログラミング電卓を250ドルで売り払い、100台分の部品を集めた。さらにアタリで営業をしていたロン・ウェインも株式10%分の権利を持つことを条件として参加した。
彼らは基板、マニュアルの製作にあたった。また、彼らの会社の名前はアップルとなった。この名前の由来には諸説があって代表的なものだけでも、ジョブズがビートルズを尊敬(ビートルズのレコード会社名がアップル) / 同じくジョブズがフルーツダイエットをしていた時期があって、そのころリンゴだけ食べればシャワーを浴びる必要が無いと考えていたことから / リンゴは知恵の実で良いイメージ / 電話帳の最初のほうに掲載したかった(頭がA) / ほかにも多くの仮説・俗説があるが、いずれも米Apple社の公式な説明ではないため真偽は定かではない[5]。
1976年6月に、バイトショップにApple Iを50台納品。666.66ドルの価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかった。失望したロン・ウェインは権利を放棄して会社を去る。しかし8月を過ぎると売上は好転し、ジョブズとウォズは昼夜時間を惜しんでApple Iを製造した。
Apple Iの最初の取引で、約8,000ドルの利益を手にした。Apple Iを大量に作って売ろうと考えたジョブズは、アタリ時代のボスであったノーラン・ブッシュネルに相談する。ブッシュネルは、ベンチャーキャピタル会社を紹介するが、ジョブズの話に興味を持てず、マイク・マークラを紹介した。マークラは、フェアチャイルドセミコンダクターとインテルのストックオプションで財を成し、若くして隠遁生活を送っていたが、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にアップルに加わった。マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、さらにバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取った。1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。
1977年5月、ナショナル セミコンダクターからマイケル・スコットを引き抜き、彼を社長の座につける。スコットはアップルをより組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行した。社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議する。しかし、社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。ちなみにマークラが3番、スコットが4番の社員番号であった。
これと前後してウォズニアックは、アップルに注力するためにヒューレット・パッカードを退社。Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカラー表示、内部拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発し、1977年4月に発表する。価格は1,298ドル。Apple IIは爆発的に売れ、1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらした。Apple II発売に際してApple Iを回収、無償交換キャンペーンでバージョンアップ対応したため現存するものは少ない。
1980年にアップルは株式公開を果たし、750万株を持っていたジョブズは2億ドルを超える資産を手に入れることになった。また、フォーチュン誌で長者番付に名を連ねた唯一の20代(当時25歳)となり、コンピュータ業界の天才児としてもてはやされる事となる。
Apple IIの大成功は、青い巨人 (Big Blue) と呼ばれたIBMにパーソナルコンピュータ市場への参入を決断させる。1981年にIBM PCが発表されると、アップルは新聞広告で“Welcome, IBM. Seriously”と挑発したが、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われ、新しい製品が待望されるようになった。
前後して、1978年にジョブズらがApple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータの概念を練り上げるためのブレインストーミングが始まり、1979年の秋に2000ドル台のビジネス向けを念頭においたLisa・プロジェクトが立ち上げられた[6]。
この頃、ジョブズはXEROX社にアップルの株式と交換にパロアルト研究所の見学を申し出る。XEROXの役員は特に意識していなかったのだが、現場の開発者からは「ジョブズが来るということは盗用されてもおかしくない」という不満の声もあった。しかし、結果的に見学の申し出は受け入れられ、1979年の11月と12月の2回に渡り見学が行われた。先進的なSmalltalkで動くGUIを持ち、ビットマップディスプレイとマウスで操作されるAltoのデモにインスピレーションを得た。ジョブズは、Lisaにアルトと同じ機能を持たせることを意図し、設計に過剰に介入をし始めた。ジョブズがLisa・プロジェクトを混乱させている原因と考えた社長のスコットは、1980年の秋にジョブズに株式公開のための仕事を割り当てて、Lisa・プロジェクトのメンバーからジョブズを外した。
一方で1979年にアップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた。マイク・マークラはラスキンに500ドル台のゲーム機(コードネーム:アニー)の担当を打診したが、彼は500ドル台のパーソナルコンピュータの開発を提案し許可される。彼はカリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い入れ、またApple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で1979年にMacintosh(マッキントッシュ) プロジェクトを開始する。Macintoshは北米ではポピュラーな小型のリンゴの品種名(和名は「旭」 ただしリンゴの綴りはMcIntosh、マックはMacintosh)である。
MacintoshはApple VまたはApple 32という商品名で1981年に500ドル程度(直ぐに1000ドル程度に変更)での販売を考えていた。これに対し、ジョブズはプロジェクト開始当初は開発に懐疑的で、反対の立場をとっていた。
しかしジョブズは、Lisaプロジェクトから外されたいらだちもあってか、1981年に突如としてMacintoshプロジェクトに乗り出す。Macintoshではハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役であったジョブズの働きで予算も開発メンバーも増えた。ジョブズは、「海軍に入るより、海賊であれ」とメンバーを鼓舞し、この精神に基づきLisa・プロジェクトからメンバーや技術の引き抜きを行った。またMacintoshプロジェクトのあった建物(テキサコ・タワー)の屋上にドクロの海賊旗を掲げさせた。
ところが、Lisaを上回るものにしようとするジョブズがソフトに対しても介入を行い、2人の対立は深刻化していく。結局1982年3月、ラスキンはアップルを去った。
ジョブズは「Lisaの機能の70%しかなくても、価格がLisaの20%であれば売れる」と70/20の法則をメンバーに説いてまわった。またMacintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、出来上がった基板パターンが美しくないという理由で却下してもいる。このとき、「もし君が大工で美しいタンスを作っていたら、人の見えない部分に合板を貼り合わせてごまかすようなまねはしないはずだ。」と喝破したという。
また、同じく美しくないという理由で拡張スロットの採用を拒否し、フロッピーディスクドライブもイジェクトボタンはみずぼらしいという理由で、ソニーに現在にも通ずるオートイジェクトのドライブを開発させ、採用した。マウス、GUIといったものだけでなく、視覚的にも動作的にも美しく分かりやすいものを採用した功績は大きい。
Macintoshの開発は難航し、1984年1月にようやくスーパーボウルの伝説のCM『1984』とともにデビューを果たした。しかし、Apple IIとの互換性はまったくなく、当然対応するサード・パーティのソフトもほとんどなかった。そこでアップルは、外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。
Macintoshの発売後、マークラはジョブズに干される形でアップルを去ったラスキンに対し、敬意を表する形でMacintoshを送ったが、ラスキンがどういった感情を抱いたかは不明である。
社内ではそのような波乱が起きてはいたが、アップルはMacintoshという新たなパーソナルコンピュータを登場させることで、すべてのコンピュータ業界に新たな方向性を示したのだった。
そしてアップルは、Macintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンタであるLaserWriterを登場させることで、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させることなく、奇麗なアウトラインで出力することを可能にした。また、アルダス社(現アドビシステムズ)の開発したPageMakerとMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、DTPという市場を創造した。現在でもDTP用途ではMacintoshが多用されているのは、この2つの製品による革命と、高価ではあったがグラフィック処理にも耐え得るモトローラ製CPUの採用に起因していると言える。
1981年、スコットは能力不足を理由にマークラに解雇される。暫定的にマークラが社長の座についたが、ジョブズは(会長ではあったものの)自身の経営者としての資質に疑問を抱き始めており、スコットの後任としてマーケティングに優れた社長となる人物を連れてくる必要に迫られた。
ジョブズは、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、18か月に渡る引き抜き工作を行う。このとき、彼は「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないのか?」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?) などとスカリーを口説いた。
1983年ジョン・スカリーはアップルの社長の座に就く。ジョブズとの関係は「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるようになり、2人の関係は常に良好だった。1984年1月にはMacintoshのデビューに立ち会い、順調に経営が進行するように思われた。
しかし、1984年のクリスマスシーズンは、需要の予測を大きく誤り、Macintoshの過剰在庫に悩まされることになった。この第4四半期で初の赤字を計上、従業員の1/5にあたる人数の削減を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、1985年4月にMacintosh部門からの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。
スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間に彼をアップルから追放することを画策した。このことはジャン=ルイ・ガセーにより事前にスカリーに伝えられ、1985年5月24日の取締役会でジョブズの画策をスカリーが問い質し、他の取締役にスカリーとジョブズのどちらかを選ぶように告げた。取締役のほとんどはスカリーを選び、ジョブズは5月31日にアップルでの(会長職以外の)すべての業務から外された。
スカリーは「一番の大株主であり、会長でもあるのだから大人しく引退することを望んでいた」と言うが、それに反するようにジョブズは当時所有していたアップルの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。
スカリーは、Macintosh以外にアップルの柱となる製品が必要だと感じていた。スカリーはコンピュータの未来像としてKnowledge Navigatorというものを描いていた。これは、コンピュータがユーザの優秀な秘書をこなし、言葉や簡単なリモコン操作のみで自由自在に操れるという物で、この後の予定を教えてくれたり、電話を取り次いだり家に居ながら会議が行える。Appleは、ナレッジ・ナビゲータを仮想ではない近未来のコンピュータとして提案した。
一方、ガセーの許可を受け1987年頃にはNewtonとよばれるPDA開発のプロジェクトを開始していた。スカリーはこのNewtonに自身のナレッジ・ナビゲータを感じ取り、開発に力を入れるようになっていった。
1990年、スカリーはMacOS互換機(後述)及びニュートンの方向性を巡ってガセーと対立する事となる。ガセーを辞職させた後、スカリー自身は技術者でないのにも関らずアップルのCTO (最高技術責任者)に着任した。そして1992年、CPU にARMを採用し、ペンデバイスによる手書き認識などを実現した PDA、Newton Messagepadを発表した。
初代Messagepadはシャープと共同開発されたと言われており、シャープにとっては後のザウルスのヒットへと繋がる事となる。世界初のPDAとなったMessagepadはNewton OSと言う独創的なOSを採用し、ペンデバイスで入力した文字をそのままテキスト文書として保存が出来る事が特徴だった。それ以外にもフリーハンドで書いた文字や絵を保存する作業をせずに電源を落としても、電源投入後にはそのままの文字や絵を表示させる事が出来、メモ帳(紙)にとって変わる新しいコンピュータの方向性を示した物と言える。しかし、ビジネスとしては失敗した。
ジョブズがアップルを去ったのに前後して、1985年6月25日にスカリーとハード担当責任者であったガセー宛に、マイクロソフトのビル・ゲイツから「AT&Tやヒューレット・パッカード、ソニーなど有力メーカーにMacintoshのOSをライセンスするべきで、ゲイツ自身もその手助けを惜しまない」という内容のメールが送られた。ゲイツは自社でのOS開発凍結も考えていたほど本気だったようだ。
スカリーはOSライセンスの可能性について調査を指示したが、ガセーを筆頭にした技術陣からの猛反対を受けてこの提案は闇に葬られた。
その後、パソコン用の16ビットCPUは逐次32ビットに移行していく。アップルの採用したモトローラ系ではMC68000、MC68020、MC68030、MC68040と推移していく。モトローラのCPUは最初のMC68000から、32ビットへ容易に移行できるように設計されていた。
アップルはライセンス違反をしているとして、マイクロソフトに対してGUIに対する対価を求めて裁判を起こす。ジョブズが復帰(後述)する頃まで裁判は長引き、その時点ではアップルに対して不利な裁定が下る事になる。しかしその数年前、ゼロックスがアップルに対して同様の裁判を起こし、ゼロックスに対して不利な裁定が下っている事も有り、熱心なマッキントッシュ・ユーザは複雑な心境を抱いていた。
アップルはマイクロソフトのMicrosoft Windowsに対して市場競争を模索する。これより68000系以外のCPUアーキテクチャへの移行である。その1つx86系への移植プロジェクトであるスタートレックが、1992年頃にNovellの協力を得て開始される。しかし計画は後述のPowerPCに専念するため中断され、日の目を見ることは無かった。
1990年、アップルはスカリーの後任として、アップルのヨーロッパ市場で実績を持つマイケル・スピンドラーを社長に据える。スピンドラーはIBMと交渉し、同年アップルはIBM とモトローラと組んで新しいパーソナルコンピュータのプラットフォーム開発を発表した。IBM PCとマッキントッシュの経緯から、この共同開発発表は西海岸と東海岸の巨頭同士の歴史的和解とも言われた。
新しいPCは、CPUにRISCチップであるPowerPC、OSとしてTaligent(開発コード:Pink)、アプリケーションとしてマルチメディア開発ツール・Script Xとも呼ばれた「カレイダ」からなる予定であった。
技術者が休暇中に趣味で作り上げた68000系エミュレータの出来がよく、またTaligentの開発は困難を極めたため、1994年、PowerPCと68LC040エミュレータを搭載し、従来の68000系のバイナリプログラムの動作も可能なPower Macintoshシリーズを発表する。それまでの上位機種であったQuadraをベースにしており、メモリに72pinSIMM、拡張スロットバスにNuBusを採用する等、ハードウェアの互換性も計られていた。しかし当時のMac OS(Sysytem 7.1.1や7.5.2)はバグが多く、度々エラーやフリーズを起こし、快適さと相反する不安定さも兼ね備えていた事実は否定出来ない。Mac OS 7.6までにはその不安定さは解消され、その後しだいに信頼性は向上したが、Mac OS 9.2.2に至るまで100%のPowerPCコードで作られたOSとはならず、メモリ保護もない脆弱さもそのままであった。これらの問題が完全に解消されたシステムは2001年のMac OS Xの登場まで待たねばならなかった。
1994年にアップルは、モトローラ、IBMなどにMacのライセンスを与え、互換機ライセンスを開始する。1995年にパワーコンピューティングとパイオニアが初のMac OS互換機を発表すると、akia、UMAX、ラディウスなどが続々と参入した。しかし、PC/AT互換機からの市場奪還は進まず、互換機がMacintoshのシェアを浸食するという結果となった。
1995年後半になると、マイクロソフトはWindows 95を販売開始する。Windows95は、Macintoshに似たGUIを搭載し、従来のMS-DOS上のWindows 3.1ではなし得なかったデスクトップ環境とフォルダ管理のGUI化を果たした。様々な面でDOSのしがらみを依然として引きずっていたWindows 95ではあるが、操作性が3.1以前に比べて大幅に向上したことにより爆発的にヒットし、次期OSであるCoplandの開発に手間取っていたMacintoshの深刻な脅威となった。
後に公表される事となるが、サン・マイクロシステムズとは1988年ごろから合併交渉を行っていた。1990年には、ほぼ合意に達していたが、アップルがIBMとモトローラとの提携を発表したことで白紙に戻ってしまった。その後もAT&Tやコダックと交渉を行うが企業風土の違いでまとまる事はなかった。
ニュートンや政治(スカリーはビル・クリントンの大統領選挙応援に力を入れていた)など、Macintoshに力を注いでいないスカリーの行為に、アップルの取締役会は、不信の目を向けるようになった。1993年に業績が大幅に悪化すると、1993年6月18日、ストックオプションなど約1000万ドル相当の退職慰労金を手にスカリーはCEOを退任し、アップルのヨーロッパ市場で功績を上げていたマイケル・スピンドラーが新たなCEOに就任する。
1993年にスカリーの後任としてCEOに就任したスピンドラーの仕事は、アップル本社を高く売ることだったとも言われている。
1994年は低価格Macintoshのパフォーマシリーズを増産してクリスマスシーズンを迎えたが、スピンドラーはこの需要予測を大きく外す事となる。リサーチ部門とセールス部門、更には開発部門までもがそれぞれ大きく対立していた事と、市場ではPower Macintosh等のハイスペックマシンの需要が高かったにも関わらず、ロースペックで利益率の悪いパフォーマの在庫が日に日に増えて行き、需要の高いPower MacintoshやPowerBookが品薄状態で、生産が全く持って追いついていないと言う最悪の結果となった。
当時のアップルは内部のゴタゴタが余りにも多く、悲惨な状態であった。需要予測を外した上に、スピンドラーの指示を誤解したセールス部門は、ただでさえ利益率の悪いパフォーマを赤字でバラ撒いて売りさばいてしまった。それ以外にもさまざまな要因が重なり、この四半期で赤字は8000万ドルに達した。
その頃(1995年)アップルはキヤノンと1株54ドル50セントでの買収交渉を行うが、キヤノンの社長が急死した事も重なり、最終的には実現する事はなかった。そしてアップルは再びIBMと交渉の場を持つが、IBMはロータス社を買収しサービスビジネスに会社を方向転換の最中で、アップル買収にはお世辞にも前向きな姿勢とは言えなかった。その上、IBMはどんな買収交渉であっても、結論を出すまでに途方も無い時間をかける事が通例で、交渉に入ってもまったく音沙汰が無いと言う事が多い企業である。 どんな形であってもアップルを売り出したい取締役連中は、その余りにも遅いIBMの動きだけに目をとらわれてしまい、実際のIBMの過去の動向には全く気付いていなかった。最終的にはIBMとの交渉は決裂してしまい、その後にはフィリップスと1株36ドルで交渉を行うが、フィリップスの役員会であっさりと否決されてしまう。
1996年1月23日の株主総会で、アップル再建策としてマック互換機ライセンスビジネスの加速と人員削減による提案を行うが、株主から辛辣な言葉を浴びせられる。総会後の取締役会でサン・マイクロシステムズのスコット・マクネリも参加して最後の買収交渉(1988年時とは異なりアップルが吸収される立場)が行われた。マクネリはアップル1株につき23ドルを譲らず、買収交渉は頓挫。その後の取締役会で、スピンドラーは責任を取らされる形でCEOの座を下ろされる事となる。
マイク・マークラを筆頭とするアップルの取締役会はスピンドラーの後任として、かつて倒産寸前だったナショナル セミコンダクターを再建し、アップルの社外取締役にも就任していたギル・アメリオをCEOの座につけた。アメリオは後に、「当時の取締役の(アメリオを除く)全員がアップルをどこに売り渡すかと言う事しか考えておらず、アップルを再建する事はみじんも考えていなかった」と語っている。大のMacintoshファンでもあったアメリオは、アップルを売る事しか考えていなかった取締役のほとんどに失望を覚え、アップル再建の道標となるべく一歩を踏み出した。
MacintoshのOSは、1984年の出荷以降、System 7まで大幅に強化改良されたものの、基本的な部分はほとんど進化していなかった。1990年代に入ると、マルチメディアやネットワークの時代を迎え、従来はミニコンや大型汎用機のOSの機能であったマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)、メモリプロテクション(メモリ保護)、仮想メモリ、ネットワーク機能を備えた“モダンOS”が、次世代のパソコン用OSに必要だと考えられるようになった。
System 7が提供するマルチタスクも仮想メモリもあくまで擬似的な物で、モダンOSにはほど遠く、継ぎ接ぎで機能を拡張した結果、動作が不安定になりやすいという欠陥を抱えていた。いくら操作性や外観が良くとも、Mac OSは頻繁な強制再起動が強いられる不安定なOSとしての評価を受ける事となってしまう。この問題を解決するために、アップル社内では、幾度にも渡り新しいOSの作成が計画された。当時のSystem 7の機能を拡張してネットワーク機能やGUIを拡張する"Blue"計画は、System 7.5としてリリースされたが、未来志向の“オブジェクト指向OS”を作る“Pink”計画は、IBMも巻き込んで別会社を作り開発し始めたが、要求仕様だけが膨らみ続け、道半ばで頓挫した。
Pink OSの反省からやり直された新OSが開発コード「Copland」で、System 7.x系と互換性を持たせつつ、革新的なGUI、暫定的なマルチタスク機能と暫定的に改良されたメモリ管理機能を提供し、メモリ4MBのMac Plusでも動作するほどコンパクト、というふれこみであった。さらにCoplandの先には、モダンOSの条件を備えた、開発コード「Gershwin」が予定されていると発表された。
1996年5月、アップルは「Worldwide Developers ConferenceでCoplandを「Mac OS 8」として発売する」と発表した。しかし、期待されていたベータ版の配布は行われず、基調講演でアメリオが新しいFinderのデモを見せる程度で終わってしまった。この頃、Coplandは各モジュールがバラバラに開発されている状態で、OSとして組み上げられないという悲惨なものであった。また、Gershwinは名前とコンセプトの触れ込みだけで、開発は全く手をつけられていなかった。この状況を調べ上げたCTO兼副社長のエレン・ハンコック女史は、Coplandが完成する見込みがないと早々に判断を下した。IBMやNovellの撤退でOpenDoc計画も中止になり、Coplandは次第に人々の記憶から消えていった。
アメリオとハンコックは、Coplandの開発中止を発表し、予定されていたCoplandの機能は、1年ごとに「Tempo」「Allegro」「Sonata」(いずれも開発コード)として、少しずつリリース、その合間にマイナーアップデートを提供すると発表、翌1997年1月に、「Mac OS」という呼称を初めて公式に採用したSystem7.5のマイナーアップデート版「Mac OS 7.6」が発売された。7.6登場の前後、PowerPCによる実質的なマッキントッシュ互換機のための仕様であるCHRPが策定される。CHRPは、PowerPCを搭載するマッキントッシュ上でWindows NT等のIBM互換機で動作するOSをネイティブに動かす事が出来、以後のOSに対する方向性を打ち出した物だった。しかし、互換機に対する抵抗感があるアップルは二の足を踏む事となり、1997年にNeXT社を買収したことによるRhapsody(後述)の登場によってCHRPの存在意義が無くなってしまった。
Copland計画を白紙に戻したアメリオとハンコックは、次期Mac OSとなる新たなOSを外部から調達する事を決定する。その中には マイクロソフトのWindows NT、サンマイクロシステムズのSolaris、IBMのOS/2、BeのBeOSを候補として、調査と交渉を行った。なかでもBeOSこそ本命と噂されていた。
1995年、PowerPC 603を2機搭載したBeBoxを発表したBe社は、1990年にアップルを追われた元ハードウェア担当社長のジャン=ルイ・ガセーが創業した会社である。BeOSは、コンパクトなオブジェクト指向のOSを目標とし、モダンOSとしての条件をすべて備え、マイクロカーネルによる高い移植性を維持しながらマルチタスク/マルチスレッドの高負荷時にカーネル・サーバ間に通信がボトルネックにならない、などの特徴を持つOSとなる予定であった。音楽や動画関係に強く、かつ軽快に動作することを目指したBeOSは、自社のBeBoxを生産中止にした後、非常に短期間の間にPowerMacintosh用に移植され、その後IBM互換PC用にもこのBeOSを短期間で移植している。
1996年中頃には、Beとアップルの買収交渉が本格的に始まった。ガセーは1億ドルを要求したが、アップルは5000万ドルと見積もっていた。アメリオはこのBeOSに高い関心を寄せていたが、BeOSは未完成でAPIが整備されておらず、BeOSを買収したとしてもMac OSとして出荷できるようになるまでには数億ドルの投資と、数年にも渡る歳月が必要だと見積もられていた。なかなかBeOSの売り込みが進まないBe社は、BeOS開発版である「BeOS PreviewRelease」をMac互換機を作っていたパワーコンピューティングにライセンスを行うなど、挑発的とも取れる行為を行うようになった。
1996年の11月頃、アップルが次期OSを外部に求めているという話を知ったNeXT社のエンジニアは、スティーブ・ジョブズに打診。公表されてはいなかったがNeXTはハードウェアから撤退し創業以来初の黒字となっていたものの経営状態は良好とはいえず、ジョブズはこの話を受けてアップルとアメリオに対してOPENSTEPを売り込んだ。ジョブズは12月上旬に、1985年以来初めてアップル社内に入り、アメリオら首脳陣と話し合いを行った。12月10日にはBeOSとOPENSTEPの比較プレゼンテーションが行われたが、勝利を確信していたガセーがほとんど事前準備をしていなかったのに対し、周到に準備をしたジョブズがカリスマ的なプレゼンテーションを行い、ガセーは敗れ去った。12月20日にアップルがNeXT社を4億ドルで買収することを発表し、次期OSの基盤技術としてOPENSTEPを採用すると発表した。
1997年2月に正式にNeXT買収が成立し、アメリオの要請も有りジョブズはアップルに非常勤顧問という形で復帰した。この時、アメリオからプレゼントされた20周年記念Macintosh(20th Anniversary Macintosh)を窓から投げ捨てたという噂が真しやかに囁かれた(ちなみにウォズにもこの記念すべきMacintoshがプレゼントされた)。
アップルに復帰したジョブズは、取締役を巻き込み、アメリオを追放すべく策を企てる事となる。7月にアメリオが辞任する事となるが、それ以前からジョブズは徐々に復権していった。アメリオ辞任に伴い、取締役会はジョブズにCEO就任を要請したが、彼はこれを拒否し「責任がそれほど大きくない一時的なことであれば構わない」と言い、暫定CEOとして就任する事になる。
一方、アメリオによるリストラは、このころようやく成果を上げ始めていた。膨れ上がった研究開発費は大鉈をふるわれ削減されていたし、複雑になっていたMacのラインナップも整理されつつあった。低迷を続けていたNewton事業を別会社に分離し、アップル本体はMacintoshに集中できるようになった。1997年7月にリリースされた「Mac OS 8」は、久々の大ヒットとなり、Macユーザーの間に広く受け入れられた。Coplandによる革命的進化を諦め、Mac OSの漸進的改良を進めるという方針が功を奏してその後のMac OSの開発は順調に進み、1998年にはMac OS 8.1をはさんでMac OS 8.5、1999年にはMac OS 8.6、Mac OS 9と、メジャーアップデートとマイナーアップデートが交互に半年ごとにリリースされた。これらはアメリオによるプランをジョブズが踏襲したものである。
ジョブズは、その思惑通りに事を進めて行く中で、士気を上げるため従業員のストックオプションの引き下げを取締役会に提案した。しかし、取締役会がこれを否定すると、ジョブズは取締役全員に辞任を迫った。結局、マイク・マークラを含む取締役陣は、そのほとんどが辞任する事となる。代わりに、オラクルのラリー・エリソン、インテュイットのビル・キャンベルらを取締役に迎え入れ、取締役会はほぼジョブズ寄りのメンバーに再構成された。
ジョブズは1997年同年マイクロソフトと特許のクロスライセンスおよび業務提携を結んだ(アメリオがビル・ゲイツと長らく交渉してきた中で頓挫した内容であった)。アップルはNetscape Navigatorに代わりInternet Explorerを標準ウェブブラウザとしてバンドルする事と引き換えに、マイクロソフトはMicrosoft OfficeをMacintosh用により一層最適化させ、更にMacintosh版とウィンドウズ版を同時リリースするということである。更にマイクロソフトはアップルに対し1億5000万ドル以上と言われる出資(額は非公表、議決権のない株式を発行)を行った。そしてボストンで行われた1997年のMacworld Conference & Expoでは、ジョブズの基調講演の最中にゲイツがスクリーン中に登場し、それらの提携を発表する事となる。歴史的和解とも取れるこのコンピュータ業界の大物同士の両者の演出は、発表された提携内容よりも話題性の方が大きく報道され、関心の深い者には良くも悪くも波紋を呼ぶ結果となった。
かねてから開発が進んでいたPowerPCの新たな製品としては、低価格ながら従来のハイエンドチップを上回る性能を持つPowerPC G3を発表。モトローラとIBM、アップルの共同開発で進められたこの次世代チップは、新たなMacに搭載され、Power Macintosh G3として発売される。またG3の発表と並行して「赤字の元凶で共食い競争でしかない」とされたMacintosh互換機メーカへのMac OSライセンスを順次停止して行く事も決定。そのうちの1社であるパワーコンピューティング社を買収し、アップル自身がオンライン直販を行うことを決める。これが後にApple Store として展開して行く事となる。
1997年11月には、分離されたNewton事業をアップルに戻す形で清算した。同じ頃、アップルは“Think Different.” キャンペーンを大々的に開始する。この"Think Different."では各界の偉人・著名人をCMに起用し、アップル自身のイメージ転換戦略が計られた。
1998年、PowerBook G3を発表。複雑な曲線を多用した斬新なデザインは従来のPowerBookと一線を画すものであり、ジョブズの製品に対する美意識が現れた初めての製品としてMacユーザーの関心を呼んだ。同時期にアップルのソフトウェア部門の別子会社であったクラリスをファイルメーカー社と改名し、FileMakerの開発・販売に専念させ、クラリスワークスに代表されるその他のアプリケーションの開発・販売権をアップルに戻す決定もなされる。
ジョブズは1998年5月に、Worldwide Developers ConferenceでiMacを発表する。このiMacは無骨なベージュ色の機械の塊ではなく、ポリカーボネイト素材をベースに半透明(トランスルーセント)筐体を採用した、人間の感性に呼びかけるデザインテーマの製品であった。このデザインは視覚的にも訴えかけていたが、ボンダイブルーなる青緑のカラーリングにマスコミはこぞって賞賛を送る事になる(デザイン界では意見は二分されたが、その年のグッドデザイン賞では金賞を獲得)。iMacの存在意義はそれだけでなく、単純明快なコンピュータである事を示すべく、それまでのSCSIインターフェイスやRS-422シリアルポート、ADB等を廃止し、当時のPC/AT互換機で採用が始まっていたUSBを新たに標準として採用した。
更に、ベージュや白だったコンピュータ業界を否定する様にトランスルーセントデザインを採用する事で、ジョブズはこのiMacにも似合う周辺機器が開発される事を見越しており、サードパーティ各社はこぞって新製品や現行品の改訂版として同様の半透明素材を採用した製品を発表した。アップルは後にこのiMacのリビジョン改訂を行い、5色になったiMacは"Candy"と名付けられ、色名も"ブルーベリー"、"タンジェリン"、"ストロベリー"、"グレープ"、"ライム"の名称が与えられる。その後もカラーテーマを替えて人目を惹き、それに付随する様にスロットローディングタイプのCD-ROMドライブを採用したり、Power Macintoshにしか与えられていなかったFireWireポートを採用する等でヒットを続け、iMacはアップルに久しぶりの大きな売り上げをもたらした。
iMacの特徴はそれだけでなく、初代Macintoshから続くコンパクトマックの特徴であった"取っ手"を復活させ、発表時にはiMacの画面に"hello(again)"と表示させていた事も、アップルの原点回帰を印象付ける結果となった。(初代Macintoshの発表時、その画面に"hello"と表示されていた事からの引用)
Rhapsodyがサードパーティーに受け入れられないと判断すると、Macintoshで用意されている APIのうち、使用頻度の高いAPIを抽出してCarbonとよばれるAPIをRhapsodyへ採用することを発表する。これにより次期OS Mac OS Xへの移植を促進させることを期待した。CarbonとはMac OSのAPIをRhapsodyに提供するものである。もし、サードパーティのソフトウェアがCarbon内のAPIだけで動いている場合、再コンパイルすることなくMac OS X上で動作する事になる。
Carbonは、元々Mac OS上のQuickTimeをMicrosoft Windowsに移植するために作られたと言われている[要出典]。膨大なQuickTimeを一から、Rhapsody上で作り直す手法をアップルは取らなかった(ようやくSnow Leopardで作り直す)。Mac OSにありRhapsodyに欠けているAPIを追加する事により、Windows同様にRhapsody上でそのままQuickTimeが動くはずだ、という考え方を採用した。Carbonとは、Mac OS Xに提供された元々はMac OS由来のAPI群であった。
Rhapsodyは元々「BlueBox」と呼ばれるMac OS 8.5をベースとした仮想環境と、「YellowBox」と呼ばれるOPENSTEPをベースにしたAPIと、BSDとMachをベースにしたカーネルによって構成されていた。その内のYellowBoxは基本的にOPENSTEPのAPIであり、そのOPENSTEPはカラム表示やウィンドウシステム、またDockなど、登場時のUIは革新的な物であった。そのMac OSにも引けを取らない使い易さと、UNIXベースの安定さを兼ね備え、YellowBoxを備えたOSはMac OS X Server 1.0としてリリースされる事になる。同時に、Mac OS 8.5との互換性及び共存性を持たせる意味で、Mac OS X ServerとMac OSのデュアルブートを可能にしており、PCIバスを持つPower MacintoshやG3チップを積むPower Macintosh G3でサーバ用OSとして動作した。
2000年9月13日には、次世代オペレーティングシステムであるMac OS X Public Betaを発表した。Mac OS X Server 1.0がアイコンや内部構造、またシステム自体に色濃くOPENSTEPの名残を残していたが(Finderの代わりにOPENSTEPで用いられていたWorkspace Managerを利用)、新たなMac OS XはAquaという表現方法を採用し、Mac OS X Server 1.0ともMac OSとも全く違う、大きく変わった外観を持っていた。奇麗なGUI表示となったMac OS Xだったが、大きく変わった操作性についてユーザから戸惑いの声が上がった。
2001年、Mac OS X v10.0 (Cheetah)を発表。アップルは、Macintoshを核に様々なデジタル機器を連携させる「Digital Hub」という構想を打ち出した。
2001年、Mac OS X v10.1 (Puma)を、Mac OS X v10.0の登場からわずか7か月で発売。10.0からの無償アップグレードサービスが行われる。10.0に欠けていた様々な機能が追加され、実用的に使える初めてのバージョンとなった。マイクロソフト、アドビなどから少しずつ対応ソフトがリリースされ始め、先進的ユーザから受け入れられる。
2002年、Mac OS X v10.2 Jaguarを発表。事実上、このバージョンが現在に続くMac OS Xの完成型と言える。このバージョンから少しずつ旧ユーザにも受け入れられたようである。
2003年、Mac OS X v10.3 Panther iPodの売れ行きの好調さ、デジタルカメラや無線LAN環境の普及により、当初の路線「Digital Hub」が実現したと言える。標準機能でWindowsのネットワークに参加できるようになった。Finderも改良され、カラーラベルが追加されるなど、よりマックライクになった。Mac OS Xでも大手印刷会社への入稿受け入れが整ったため、遅れていたデザイン、出版分野への導入が徐々に進み始める。またライセンス使用料の追加がないクライアント無制限のMac OS X Server搭載の1UサーバXserve導入とディスクレスNetBoot機能が評価され、東京大学[7]、東京女子大学に大量導入された。
2005年4月29日、Mac OS X v10.4 Tiger発売。システム内部が大きく進化した。システムに統合されたデスクトップ検索機能Spotlight、ダイナミックHTMLベースのアプリケーション実行環境Dashboardのほか、200 以上の新機能を搭載した。セキュリティ機能が充実し、あおぞら銀行[8]、神戸大学にNetBoot端末としてiMac G5が大量導入された[9]。
2008年現在の最新バージョンはMac OS X v10.5 Leopardである。
2001年、それまで主流だったフラッシュメモリ型とは一線を画す、大容量ハードディスクドライブ型携帯音楽プレイヤーiPodを発売。当初は価格の高さにより売れ行きを疑問視する声が少なくなかったが、直感的な高い操作性と、管理ソフトiTunesとの抜群の連携機能もあり、徐々に売上を伸ばす。
当初はMac版しかなかったiPodであるが、後にWindows版のiPodも発売される。その後、Windows用、Mac用といった区分けはされなくなり、Windows向けiTunesが提供されたころからヒット商品となる。そして廉価版とも言えるiPod miniを登場させた事で爆発的にヒットする。 さらに2003年には、オンライン楽曲販売のiTunes Music Store(現在のiTunes Store)を開始。2004年にはiPodをヒューレット・パッカードにライセンスするなど、携帯音楽市場で、米国を中心に独占的な地位を確保するに至った。日本でもウォークマンを圧倒し、2003年以降一貫してデジタル携帯音楽プレーヤーのシェア1位となる。iPod miniの後継モデルとしてiPod nano、またシャッフル再生というコンセプトをメインに据えることにより低価格化とより一層の小型化を実現したフラッシュメモリ型のiPod shuffleも発売され、人気を博している。
iTunes Music Storeは日本においては、2005年8月4日より開始された。登録楽曲数100万曲、1曲150円か200円という低価格で始まり、開始よりわずか4日で100万曲ダウンロードを達成する。ポッドキャストと呼ばれる新しいデジタル配信媒体を構想し、テレビよりも技術革新が進まないラジオのデジタル化に革新をもたらすことが期待されている。現在アップル社において最も収益を上げている部門であり、Macにもそのハロー効果が及びはじめている。
iPodが登場した当初は、現状のような大成功を収めると思っている関係者が多かったわけではない。初期には価格の高さ、利用にはパソコンが必須となるコンセプトが理解されなかったことにより、懐疑的な意見が多くあった。しかし2001年前後にアップルが提唱していたコンセプト「デジタルハブ」(多くのデジタル機器の中心にパソコンを据えるというコンセプト)構想が時宜を得て、iPodは携帯型音楽プレイヤーの代名詞となった。
2007年1月9日、アップルは新製品iPhoneの紹介とともに携帯電話産業へ進出した。iPhoneは高機能携帯電話+iPod+インターネット端末と発表され、マルチタッチスクリーンなど先進的でユニークなデザインが話題を呼び、iMac、iPodに続き世界で人気商品になった。
その後iPhoneのOSはMac OS Xベースであることが公表され、2008年6月にはiPhoneはSDKが公開されスマートフォンとなる。アップルにとってはNewton以来の実質的なPDAへの復帰である。2008年6月9日には、第三世代通信規格のUMTS、高速通信のHSDPAやA-GPSに対応した、iPhone 3Gが発表された。
Apple が創業されたときのロゴマークは、ニュートンがリンゴの木に寄りかかって本を読んでいるところをモチーフにした絵(ロン・ウェインのデザイン)であった。しかしこれでは堅苦しいと考えたスティーブ・ジョブズは、レジス・マッケンナ社のアートディレクターロブ・ヤノフに新しいロゴマークのデザインを依頼する。ヤノフは、シンプルな林檎の図案の右側に一かじりを加えた。「一かじり」を意味する “a bite” とコンピュータの情報単位の “byte” をかけたのだという[10]。最初はモノクロだったが、ジョブズが、Apple IIのカラー出力を印象づけるため、カラー化を指示し、6色の横縞が追加された。1997年にジョブズが暫定CEOとしてAppleに復帰し、IBMライセンスを受けるまでの間は、6色で塗り分けた横縞が入っていた。2006年現在、現CEOジョブズの働きかけにより、単色の林檎のデザインが使用されている。
1985年、芸術家でポップアートの旗手として有名なアンディ・ウォーホルは、Appleとのコラボレーションにより6色アップルのMacintoshロゴマークをモチーフにした作品「APPLE」を発表。没前の代表作である。
コンピュータ企業には多い傾向だが、特にいわゆるWintelに対して挑戦的なCMを製作する。IBMがパソコン業界に参入したときは「Welcome!」と出迎え、ファイル名が8.3形式の文字の制限が緩和されたWindows 95の発売に対し広告で『C:\ONGRTLTN.W95』(「congratulations Windows 95」を8.3形式で無理矢理表現したもの)と皮肉った祝辞を送り、発熱量の多いインテルチップが高温で燃えるようなCMも作っていた。
そんなAppleのCMでとりわけ話題になったものがある。それは1984年に製作され、スーパーボウルの試合中に放送された。タイトルは、前述の通り初回放送された当年に由来した「1984」。その内容は、「1984年1月24日、Apple社はMacintoshを発表いたします。そして我々は、今年1984年が小説『1984年』に描かれているような年にならないということをお目にかけましょう…」と言うもの、このCMは、映画「ブレードランナー」等を手掛けた監督・リドリー・スコット作によるもので、ビッグ・ブラザーなる独裁者を東海岸の企業(IBM)に見立てており、闇を支配する独裁者を打ち砕くという内容だった。センショーナルな内容のこのCMは数々の賞を総ナメにし、これ以降のAppleのCMセンスが確立されたとも言える。
なお、このCMは前述で述べたように、スーパーボウルで1度だけ放映されたものだが、後に期間限定で蘇った[11]。
2006年よりアメリカおよび欧州で、"I'm a Mac", "I'm a PC" の台詞から始まる、"Get a Mac."と呼ばれるCMを放映している。それにはカジュアルな服装のスティーブ・ジョブズ似の青年(Mac)と背広にネクタイのビル・ゲイツ似の中年(PC)との二人のショートコント仕立てで、PC との比較広告を行う。他の国では基本的に米国版(フランス・ドイツ・イタリアでは各言語に吹き替えられている)を流しているが、日本と英国では米国とは別バージョンのCMを放映している[12][13]。日本ではコンセプトを継承しつつお笑い芸人ラーメンズを起用したものとなり、内容も異なる。この CM は十数編近くあるが、いずれも PC のウイルスに対する脅威(Macではウイルスが無いような表現をしている)、マルチメディアへの弱みや「玄人向け」イメージを痛烈に皮肉る内容である。
日本法人は1983年6月21日にアップルコンピュータジャパン株式会社 (Apple Japan, Inc.) として設立され、その後1997年にアップルコンピュータ株式会社に、さらに2007年3月1日にアップルジャパン株式会社へと改称された。1996年10月までの所在地は東京都渋谷区千駄ヶ谷。
代表取締役には、2004年後半より、ライブドア(旧)の設立者で代表取締役兼CEOであった前刀禎明マーケティング担当(米Vice President兼)(2006年7月に退社)と日本オラクルの取締役であった山元賢治セールス担当(米Vice President兼)の2人が就任。2006年8月以降2008年1月現在は山元氏のみが代表取締役となっている。
前任は、1997年4月11日に就任した原田泳幸(現 日本マクドナルドホールディングス代表取締役兼CEO)であった。ちなみにこの原田氏は、以前は日本NCRで取締役を務めており、長年のMacユーザでもある。その原田氏がアップルから日本マクドナルドに移籍した事に関し、一部では「Macからマックへ移籍」と話題にもなった。
歴代の日本法人社長は、サイバーステップ代表取締役社長の武内重親[14][15]、日本通信代表取締役社長の三田聖二[16]、日本BEAシステムズ代表取締役社長の志賀徹也[17]など。
日本法人設立前のApple II 時代は代理店は数社あり、文京区本郷にあるESDラボラトリが最大手で、BMCインタナショナルなどが日本語マニュアルなどを作成して販売していた。日本語版Apple II であるj-plusを投入する際に、アップル本社は両社を切り、東レを総代理店とした。数年後、東レからアップルコンピュータジャパン設立委員会に移管し、日本法人が設立されるまでキヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)がほぼ総代理店を務めていた。日本法人設立後も、キヤノン販売(ゼロワンショップ)でのMacintosh独占販売はしばらく続いたが、一般消費者向け量販シリーズであるPerfomaシリーズ発売の1993年頃に、大手家電量販店に販路を拡大、Macintoshの販売はこちらが主体となり、キヤノン販売は2002年頃までにアップル製品を含む一般向けコンピュータ販売事業(ゼロワンショップ)から撤退した。
1999年12月7日、アップルはiMacやiBookの販売価格を小売店に指示したという独占禁止法の違反容疑で公正取引委員会から立ち入り調査[18]を受け、2000年10月3日には独占禁止法違反の疑いで警告[19]を受けている。
直営店であるApple Store は、米国外初進出となるアップルストア銀座 (Apple Store, Ginza)を皮切りに、日本国内に7店舗を出店している。なお、Apple Storeは日本法人でなく米国法人の直営である。アップルの新製品など商品入荷について、一般小売店よりも優先的にApple Storeに回されることがある為、一部の小売店やユーザからの批判もある。
これまでApple Storeで展開してきた全ラインアップの展示・販売方法のスタイルを継承した店舗を、家電量販店のビックカメラ有楽町店本館5階にオープンさせた。今後も家電量販店内への出店を進める予定。この場合店頭販売スペースのレイアウトや、商品知識など、直接のガイドラインの指導が行われている。
詳細なスペックについては個別の製品記事および#外部リンクのアップル社サイトを参照。
オーウェン・W・リンツメイヤー・林 信行 『アップル・コンフィデンシャル2.5J(上)・(下)』 武舎 広幸・武舎 るみ、アスペクト、2006年。ISBN 978-4757212541・ISBN 978-4757212558。
アップルコンピュータ はてなキーワード より引用 » [ 引用元 ]
→Apple
Keyword : Appleアップル (Apple Inc.、NASDAQ: AAPL) 社は、アメリカ合衆国カリフォルニア州クパティーノに本社を置く、デジタル家電製品と関連するソフトウェア製品を設計・製造する多国籍企業である。
ハードウェア製品として、パーソナルコンピュータのMacintosh(Mac)シリーズ、携帯音楽プレーヤーのiPodシリーズ、iPhone、ソフトウェア製品としては、オペレーティングシステムのMac OS Xや、統合ソフトウェアのiLifeなどの開発・販売を行っている。
アップルは、直営店(Apple Store)およびオンラインストアにおいてハードウェアとソフトウェアの販売を行っている他、iTunes Storeでは、音楽、オーディオブック、ゲーム、ミュージックビデオ、テレビ番組、映画、と広範囲のデジタルコンテンツのダウンロード販売を提供している。
アップルは、専門の音楽・映画産業向けソフトウェア製品の大手の提供元でもある。アップルのプロフェッショナルアプリケーションは、Final Cut Pro、Logic Pro、Shake、Final Cut Studioなどがある。
同社は、1977年1月3日に設立されて以来、“Apple Computer, Inc.”を名乗っていたが、2007年1月9日 (PST) に事業内容を反映させ、現社名の“Apple Inc.”に改称した[4]。
1974年、大学を中退しアタリの技師をしていたスティーブ・ジョブズとヒューレット・パッカードに勤務していたスティーブ・ウォズニアック(以下ウォズ)の2人は、地元のコンピュータマニアの集まりであったホームブリュー・コンピュータ・クラブ(「自家醸造」コンピュータ・クラブ)に参加するようになった。
1975年にインテルがi8080をリリースすると、Altair(アルテア)8080というコンピュータ・キットが早速発売されるようになり人気を博した。ウォズは、8080より、MC6800の流れを汲むMOSテクノロジー社のMOS 6502の方が安く、しかも簡易な回路のコンピュータができると確信し、1975年10月から半年間かけて設計、1976年3月に最初のプロト機を完成させた。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行った。ジョブズは自分達で売る事を考えていたが、ウォズはヒューレット・パッカードの社員であるが故に「開発した製品を見せなければならない」と上司にこの機械を見せるが断られ、自分達で売り出すこととなった。
ジョブズは、マウンテンバレーにあったコンピュータショップのバイトショップのオーナーであったポール・テレルに基板を見せた。テレルは非常に強い興味を持ち、30日以内に50台を納品できたら、現金で代金を支払うと提案する。ジョブズは愛車のワーゲンバスを1500ドルで売り、ウォズはヒューレット・パッカードのプログラミング電卓を250ドルで売り払い、100台分の部品を集めた。さらにアタリで営業をしていたロン・ウェインも株式10%分の権利を持つことを条件として参加した。
彼らは基板、マニュアルの製作にあたった。また、彼らの会社の名前はアップルとなった。この名前の由来には諸説があって代表的なものだけでも、ジョブズがビートルズを尊敬(ビートルズのレコード会社名がアップル) / 同じくジョブズがフルーツダイエットをしていた時期があって、そのころリンゴだけ食べればシャワーを浴びる必要が無いと考えていたことから / リンゴは知恵の実で良いイメージ / 電話帳の最初のほうに掲載したかった(頭がA) / ほかにも多くの仮説・俗説があるが、いずれも米Apple社の公式な説明ではないため真偽は定かではない[5]。
1976年6月に、バイトショップにApple Iを50台納品。666.66ドルの価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかった。失望したロン・ウェインは権利を放棄して会社を去る。しかし8月を過ぎると売上は好転し、ジョブズとウォズは昼夜時間を惜しんでApple Iを製造した。
Apple Iの最初の取引で、約8,000ドルの利益を手にした。Apple Iを大量に作って売ろうと考えたジョブズは、アタリ時代のボスであったノーラン・ブッシュネルに相談する。ブッシュネルは、ベンチャーキャピタル会社を紹介するが、ジョブズの話に興味を持てず、マイク・マークラを紹介した。マークラは、フェアチャイルドセミコンダクターとインテルのストックオプションで財を成し、若くして隠遁生活を送っていたが、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にアップルに加わった。マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、さらにバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取った。1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。
1977年5月、ナショナル セミコンダクターからマイケル・スコットを引き抜き、彼を社長の座につける。スコットはアップルをより組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行した。社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議する。しかし、社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。ちなみにマークラが3番、スコットが4番の社員番号であった。
これと前後してウォズニアックは、アップルに注力するためにヒューレット・パッカードを退社。Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカラー表示、内部拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発し、1977年4月に発表する。価格は1,298ドル。Apple IIは爆発的に売れ、1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらした。Apple II発売に際してApple Iを回収、無償交換キャンペーンでバージョンアップ対応したため現存するものは少ない。
1980年にアップルは株式公開を果たし、750万株を持っていたジョブズは2億ドルを超える資産を手に入れることになった。また、フォーチュン誌で長者番付に名を連ねた唯一の20代(当時25歳)となり、コンピュータ業界の天才児としてもてはやされる事となる。
Apple IIの大成功は、青い巨人 (Big Blue) と呼ばれたIBMにパーソナルコンピュータ市場への参入を決断させる。1981年にIBM PCが発表されると、アップルは新聞広告で“Welcome, IBM. Seriously”と挑発したが、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われ、新しい製品が待望されるようになった。
前後して、1978年にジョブズらがApple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータの概念を練り上げるためのブレインストーミングが始まり、1979年の秋に2000ドル台のビジネス向けを念頭においたLisa・プロジェクトが立ち上げられた[6]。
この頃、ジョブズはXEROX社にアップルの株式と交換にパロアルト研究所の見学を申し出る。XEROXの役員は特に意識していなかったのだが、現場の開発者からは「ジョブズが来るということは盗用されてもおかしくない」という不満の声もあった。しかし、結果的に見学の申し出は受け入れられ、1979年の11月と12月の2回に渡り見学が行われた。先進的なSmalltalkで動くGUIを持ち、ビットマップディスプレイとマウスで操作されるAltoのデモにインスピレーションを得た。ジョブズは、Lisaにアルトと同じ機能を持たせることを意図し、設計に過剰に介入をし始めた。ジョブズがLisa・プロジェクトを混乱させている原因と考えた社長のスコットは、1980年の秋にジョブズに株式公開のための仕事を割り当てて、Lisa・プロジェクトのメンバーからジョブズを外した。
一方で1979年にアップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた。マイク・マークラはラスキンに500ドル台のゲーム機(コードネーム:アニー)の担当を打診したが、彼は500ドル台のパーソナルコンピュータの開発を提案し許可される。彼はカリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い入れ、またApple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で1979年にMacintosh(マッキントッシュ) プロジェクトを開始する。Macintoshは北米ではポピュラーな小型のリンゴの品種名(和名は「旭」 ただしリンゴの綴りはMcIntosh、マックはMacintosh)である。
MacintoshはApple VまたはApple 32という商品名で1981年に500ドル程度(直ぐに1000ドル程度に変更)での販売を考えていた。これに対し、ジョブズはプロジェクト開始当初は開発に懐疑的で、反対の立場をとっていた。
しかしジョブズは、Lisaプロジェクトから外されたいらだちもあってか、1981年に突如としてMacintoshプロジェクトに乗り出す。Macintoshではハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役であったジョブズの働きで予算も開発メンバーも増えた。ジョブズは、「海軍に入るより、海賊であれ」とメンバーを鼓舞し、この精神に基づきLisa・プロジェクトからメンバーや技術の引き抜きを行った。またMacintoshプロジェクトのあった建物(テキサコ・タワー)の屋上にドクロの海賊旗を掲げさせた。
ところが、Lisaを上回るものにしようとするジョブズがソフトに対しても介入を行い、2人の対立は深刻化していく。結局1982年3月、ラスキンはアップルを去った。
ジョブズは「Lisaの機能の70%しかなくても、価格がLisaの20%であれば売れる」と70/20の法則をメンバーに説いてまわった。またMacintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、出来上がった基板パターンが美しくないという理由で却下してもいる。このとき、「もし君が大工で美しいタンスを作っていたら、人の見えない部分に合板を貼り合わせてごまかすようなまねはしないはずだ。」と喝破したという。
また、同じく美しくないという理由で拡張スロットの採用を拒否し、フロッピーディスクドライブもイジェクトボタンはみずぼらしいという理由で、ソニーに現在にも通ずるオートイジェクトのドライブを開発させ、採用した。マウス、GUIといったものだけでなく、視覚的にも動作的にも美しく分かりやすいものを採用した功績は大きい。
Macintoshの開発は難航し、1984年1月にようやくスーパーボウルの伝説のCM『1984』とともにデビューを果たした。しかし、Apple IIとの互換性はまったくなく、当然対応するサード・パーティのソフトもほとんどなかった。そこでアップルは、外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。
Macintoshの発売後、マークラはジョブズに干される形でアップルを去ったラスキンに対し、敬意を表する形でMacintoshを送ったが、ラスキンがどういった感情を抱いたかは不明である。
社内ではそのような波乱が起きてはいたが、アップルはMacintoshという新たなパーソナルコンピュータを登場させることで、すべてのコンピュータ業界に新たな方向性を示したのだった。
そしてアップルは、Macintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンタであるLaserWriterを登場させることで、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させることなく、奇麗なアウトラインで出力することを可能にした。また、アルダス社(現アドビシステムズ)の開発したPageMakerとMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、DTPという市場を創造した。現在でもDTP用途ではMacintoshが多用されているのは、この2つの製品による革命と、高価ではあったがグラフィック処理にも耐え得るモトローラ製CPUの採用に起因していると言える。
1981年、スコットは能力不足を理由にマークラに解雇される。暫定的にマークラが社長の座についたが、ジョブズは(会長ではあったものの)自身の経営者としての資質に疑問を抱き始めており、スコットの後任としてマーケティングに優れた社長となる人物を連れてくる必要に迫られた。
ジョブズは、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、18か月に渡る引き抜き工作を行う。このとき、彼は「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないのか?」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?) などとスカリーを口説いた。
1983年ジョン・スカリーはアップルの社長の座に就く。ジョブズとの関係は「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるようになり、2人の関係は常に良好だった。1984年1月にはMacintoshのデビューに立ち会い、順調に経営が進行するように思われた。
しかし、1984年のクリスマスシーズンは、需要の予測を大きく誤り、Macintoshの過剰在庫に悩まされることになった。この第4四半期で初の赤字を計上、従業員の1/5にあたる人数の削減を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、1985年4月にMacintosh部門からの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。
スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間に彼をアップルから追放することを画策した。このことはジャン=ルイ・ガセーにより事前にスカリーに伝えられ、1985年5月24日の取締役会でジョブズの画策をスカリーが問い質し、他の取締役にスカリーとジョブズのどちらかを選ぶように告げた。取締役のほとんどはスカリーを選び、ジョブズは5月31日にアップルでの(会長職以外の)すべての業務から外された。
スカリーは「一番の大株主であり、会長でもあるのだから大人しく引退することを望んでいた」と言うが、それに反するようにジョブズは当時所有していたアップルの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。
スカリーは、Macintosh以外にアップルの柱となる製品が必要だと感じていた。スカリーはコンピュータの未来像としてKnowledge Navigatorというものを描いていた。これは、コンピュータがユーザの優秀な秘書をこなし、言葉や簡単なリモコン操作のみで自由自在に操れるという物で、この後の予定を教えてくれたり、電話を取り次いだり家に居ながら会議が行える。Appleは、ナレッジ・ナビゲータを仮想ではない近未来のコンピュータとして提案した。
一方、ガセーの許可を受け1987年頃にはNewtonとよばれるPDA開発のプロジェクトを開始していた。スカリーはこのNewtonに自身のナレッジ・ナビゲータを感じ取り、開発に力を入れるようになっていった。
1990年、スカリーはMacOS互換機(後述)及びニュートンの方向性を巡ってガセーと対立する事となる。ガセーを辞職させた後、スカリー自身は技術者でないのにも関らずアップルのCTO (最高技術責任者)に着任した。そして1992年、CPU にARMを採用し、ペンデバイスによる手書き認識などを実現した PDA、Newton Messagepadを発表した。
初代Messagepadはシャープと共同開発されたと言われており、シャープにとっては後のザウルスのヒットへと繋がる事となる。世界初のPDAとなったMessagepadはNewton OSと言う独創的なOSを採用し、ペンデバイスで入力した文字をそのままテキスト文書として保存が出来る事が特徴だった。それ以外にもフリーハンドで書いた文字や絵を保存する作業をせずに電源を落としても、電源投入後にはそのままの文字や絵を表示させる事が出来、メモ帳(紙)にとって変わる新しいコンピュータの方向性を示した物と言える。しかし、ビジネスとしては失敗した。
ジョブズがアップルを去ったのに前後して、1985年6月25日にスカリーとハード担当責任者であったガセー宛に、マイクロソフトのビル・ゲイツから「AT&Tやヒューレット・パッカード、ソニーなど有力メーカーにMacintoshのOSをライセンスするべきで、ゲイツ自身もその手助けを惜しまない」という内容のメールが送られた。ゲイツは自社でのOS開発凍結も考えていたほど本気だったようだ。
スカリーはOSライセンスの可能性について調査を指示したが、ガセーを筆頭にした技術陣からの猛反対を受けてこの提案は闇に葬られた。
その後、パソコン用の16ビットCPUは逐次32ビットに移行していく。アップルの採用したモトローラ系ではMC68000、MC68020、MC68030、MC68040と推移していく。モトローラのCPUは最初のMC68000から、32ビットへ容易に移行できるように設計されていた。
アップルはライセンス違反をしているとして、マイクロソフトに対してGUIに対する対価を求めて裁判を起こす。ジョブズが復帰(後述)する頃まで裁判は長引き、その時点ではアップルに対して不利な裁定が下る事になる。しかしその数年前、ゼロックスがアップルに対して同様の裁判を起こし、ゼロックスに対して不利な裁定が下っている事も有り、熱心なマッキントッシュ・ユーザは複雑な心境を抱いていた。
アップルはマイクロソフトのMicrosoft Windowsに対して市場競争を模索する。これより68000系以外のCPUアーキテクチャへの移行である。その1つx86系への移植プロジェクトであるスタートレックが、1992年頃にNovellの協力を得て開始される。しかし計画は後述のPowerPCに専念するため中断され、日の目を見ることは無かった。
1990年、アップルはスカリーの後任として、アップルのヨーロッパ市場で実績を持つマイケル・スピンドラーを社長に据える。スピンドラーはIBMと交渉し、同年アップルはIBM とモトローラと組んで新しいパーソナルコンピュータのプラットフォーム開発を発表した。IBM PCとマッキントッシュの経緯から、この共同開発発表は西海岸と東海岸の巨頭同士の歴史的和解とも言われた。
新しいPCは、CPUにRISCチップであるPowerPC、OSとしてTaligent(開発コード:Pink)、アプリケーションとしてマルチメディア開発ツール・Script Xとも呼ばれた「カレイダ」からなる予定であった。
技術者が休暇中に趣味で作り上げた68000系エミュレータの出来がよく、またTaligentの開発は困難を極めたため、1994年、PowerPCと68LC040エミュレータを搭載し、従来の68000系のバイナリプログラムの動作も可能なPower Macintoshシリーズを発表する。それまでの上位機種であったQuadraをベースにしており、メモリに72pinSIMM、拡張スロットバスにNuBusを採用する等、ハードウェアの互換性も計られていた。しかし当時のMac OS(Sysytem 7.1.1や7.5.2)はバグが多く、度々エラーやフリーズを起こし、快適さと相反する不安定さも兼ね備えていた事実は否定出来ない。Mac OS 7.6までにはその不安定さは解消され、その後しだいに信頼性は向上したが、Mac OS 9.2.2に至るまで100%のPowerPCコードで作られたOSとはならず、メモリ保護もない脆弱さもそのままであった。これらの問題が完全に解消されたシステムは2001年のMac OS Xの登場まで待たねばならなかった。
1994年にアップルは、モトローラ、IBMなどにMacのライセンスを与え、互換機ライセンスを開始する。1995年にパワーコンピューティングとパイオニアが初のMac OS互換機を発表すると、akia、UMAX、ラディウスなどが続々と参入した。しかし、PC/AT互換機からの市場奪還は進まず、互換機がMacintoshのシェアを浸食するという結果となった。
1995年後半になると、マイクロソフトはWindows 95を販売開始する。Windows95は、Macintoshに似たGUIを搭載し、従来のMS-DOS上のWindows 3.1ではなし得なかったデスクトップ環境とフォルダ管理のGUI化を果たした。様々な面でDOSのしがらみを依然として引きずっていたWindows 95ではあるが、操作性が3.1以前に比べて大幅に向上したことにより爆発的にヒットし、次期OSであるCoplandの開発に手間取っていたMacintoshの深刻な脅威となった。
後に公表される事となるが、サン・マイクロシステムズとは1988年ごろから合併交渉を行っていた。1990年には、ほぼ合意に達していたが、アップルがIBMとモトローラとの提携を発表したことで白紙に戻ってしまった。その後もAT&Tやコダックと交渉を行うが企業風土の違いでまとまる事はなかった。
ニュートンや政治(スカリーはビル・クリントンの大統領選挙応援に力を入れていた)など、Macintoshに力を注いでいないスカリーの行為に、アップルの取締役会は、不信の目を向けるようになった。1993年に業績が大幅に悪化すると、1993年6月18日、ストックオプションなど約1000万ドル相当の退職慰労金を手にスカリーはCEOを退任し、アップルのヨーロッパ市場で功績を上げていたマイケル・スピンドラーが新たなCEOに就任する。
1993年にスカリーの後任としてCEOに就任したスピンドラーの仕事は、アップル本社を高く売ることだったとも言われている。
1994年は低価格Macintoshのパフォーマシリーズを増産してクリスマスシーズンを迎えたが、スピンドラーはこの需要予測を大きく外す事となる。リサーチ部門とセールス部門、更には開発部門までもがそれぞれ大きく対立していた事と、市場ではPower Macintosh等のハイスペックマシンの需要が高かったにも関わらず、ロースペックで利益率の悪いパフォーマの在庫が日に日に増えて行き、需要の高いPower MacintoshやPowerBookが品薄状態で、生産が全く持って追いついていないと言う最悪の結果となった。
当時のアップルは内部のゴタゴタが余りにも多く、悲惨な状態であった。需要予測を外した上に、スピンドラーの指示を誤解したセールス部門は、ただでさえ利益率の悪いパフォーマを赤字でバラ撒いて売りさばいてしまった。それ以外にもさまざまな要因が重なり、この四半期で赤字は8000万ドルに達した。
その頃(1995年)アップルはキヤノンと1株54ドル50セントでの買収交渉を行うが、キヤノンの社長が急死した事も重なり、最終的には実現する事はなかった。そしてアップルは再びIBMと交渉の場を持つが、IBMはロータス社を買収しサービスビジネスに会社を方向転換の最中で、アップル買収にはお世辞にも前向きな姿勢とは言えなかった。その上、IBMはどんな買収交渉であっても、結論を出すまでに途方も無い時間をかける事が通例で、交渉に入ってもまったく音沙汰が無いと言う事が多い企業である。 どんな形であってもアップルを売り出したい取締役連中は、その余りにも遅いIBMの動きだけに目をとらわれてしまい、実際のIBMの過去の動向には全く気付いていなかった。最終的にはIBMとの交渉は決裂してしまい、その後にはフィリップスと1株36ドルで交渉を行うが、フィリップスの役員会であっさりと否決されてしまう。
1996年1月23日の株主総会で、アップル再建策としてマック互換機ライセンスビジネスの加速と人員削減による提案を行うが、株主から辛辣な言葉を浴びせられる。総会後の取締役会でサン・マイクロシステムズのスコット・マクネリも参加して最後の買収交渉(1988年時とは異なりアップルが吸収される立場)が行われた。マクネリはアップル1株につき23ドルを譲らず、買収交渉は頓挫。その後の取締役会で、スピンドラーは責任を取らされる形でCEOの座を下ろされる事となる。
マイク・マークラを筆頭とするアップルの取締役会はスピンドラーの後任として、かつて倒産寸前だったナショナル セミコンダクターを再建し、アップルの社外取締役にも就任していたギル・アメリオをCEOの座につけた。アメリオは後に、「当時の取締役の(アメリオを除く)全員がアップルをどこに売り渡すかと言う事しか考えておらず、アップルを再建する事はみじんも考えていなかった」と語っている。大のMacintoshファンでもあったアメリオは、アップルを売る事しか考えていなかった取締役のほとんどに失望を覚え、アップル再建の道標となるべく一歩を踏み出した。
MacintoshのOSは、1984年の出荷以降、System 7まで大幅に強化改良されたものの、基本的な部分はほとんど進化していなかった。1990年代に入ると、マルチメディアやネットワークの時代を迎え、従来はミニコンや大型汎用機のOSの機能であったマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)、メモリプロテクション(メモリ保護)、仮想メモリ、ネットワーク機能を備えた“モダンOS”が、次世代のパソコン用OSに必要だと考えられるようになった。
System 7が提供するマルチタスクも仮想メモリもあくまで擬似的な物で、モダンOSにはほど遠く、継ぎ接ぎで機能を拡張した結果、動作が不安定になりやすいという欠陥を抱えていた。いくら操作性や外観が良くとも、Mac OSは頻繁な強制再起動が強いられる不安定なOSとしての評価を受ける事となってしまう。この問題を解決するために、アップル社内では、幾度にも渡り新しいOSの作成が計画された。当時のSystem 7の機能を拡張してネットワーク機能やGUIを拡張する"Blue"計画は、System 7.5としてリリースされたが、未来志向の“オブジェクト指向OS”を作る“Pink”計画は、IBMも巻き込んで別会社を作り開発し始めたが、要求仕様だけが膨らみ続け、道半ばで頓挫した。
Pink OSの反省からやり直された新OSが開発コード「Copland」で、System 7.x系と互換性を持たせつつ、革新的なGUI、暫定的なマルチタスク機能と暫定的に改良されたメモリ管理機能を提供し、メモリ4MBのMac Plusでも動作するほどコンパクト、というふれこみであった。さらにCoplandの先には、モダンOSの条件を備えた、開発コード「Gershwin」が予定されていると発表された。
1996年5月、アップルは「Worldwide Developers ConferenceでCoplandを「Mac OS 8」として発売する」と発表した。しかし、期待されていたベータ版の配布は行われず、基調講演でアメリオが新しいFinderのデモを見せる程度で終わってしまった。この頃、Coplandは各モジュールがバラバラに開発されている状態で、OSとして組み上げられないという悲惨なものであった。また、Gershwinは名前とコンセプトの触れ込みだけで、開発は全く手をつけられていなかった。この状況を調べ上げたCTO兼副社長のエレン・ハンコック女史は、Coplandが完成する見込みがないと早々に判断を下した。IBMやNovellの撤退でOpenDoc計画も中止になり、Coplandは次第に人々の記憶から消えていった。
アメリオとハンコックは、Coplandの開発中止を発表し、予定されていたCoplandの機能は、1年ごとに「Tempo」「Allegro」「Sonata」(いずれも開発コード)として、少しずつリリース、その合間にマイナーアップデートを提供すると発表、翌1997年1月に、「Mac OS」という呼称を初めて公式に採用したSystem7.5のマイナーアップデート版「Mac OS 7.6」が発売された。7.6登場の前後、PowerPCによる実質的なマッキントッシュ互換機のための仕様であるCHRPが策定される。CHRPは、PowerPCを搭載するマッキントッシュ上でWindows NT等のIBM互換機で動作するOSをネイティブに動かす事が出来、以後のOSに対する方向性を打ち出した物だった。しかし、互換機に対する抵抗感があるアップルは二の足を踏む事となり、1997年にNeXT社を買収したことによるRhapsody(後述)の登場によってCHRPの存在意義が無くなってしまった。
Copland計画を白紙に戻したアメリオとハンコックは、次期Mac OSとなる新たなOSを外部から調達する事を決定する。その中には マイクロソフトのWindows NT、サンマイクロシステムズのSolaris、IBMのOS/2、BeのBeOSを候補として、調査と交渉を行った。なかでもBeOSこそ本命と噂されていた。
1995年、PowerPC 603を2機搭載したBeBoxを発表したBe社は、1990年にアップルを追われた元ハードウェア担当社長のジャン=ルイ・ガセーが創業した会社である。BeOSは、コンパクトなオブジェクト指向のOSを目標とし、モダンOSとしての条件をすべて備え、マイクロカーネルによる高い移植性を維持しながらマルチタスク/マルチスレッドの高負荷時にカーネル・サーバ間に通信がボトルネックにならない、などの特徴を持つOSとなる予定であった。音楽や動画関係に強く、かつ軽快に動作することを目指したBeOSは、自社のBeBoxを生産中止にした後、非常に短期間の間にPowerMacintosh用に移植され、その後IBM互換PC用にもこのBeOSを短期間で移植している。
1996年中頃には、Beとアップルの買収交渉が本格的に始まった。ガセーは1億ドルを要求したが、アップルは5000万ドルと見積もっていた。アメリオはこのBeOSに高い関心を寄せていたが、BeOSは未完成でAPIが整備されておらず、BeOSを買収したとしてもMac OSとして出荷できるようになるまでには数億ドルの投資と、数年にも渡る歳月が必要だと見積もられていた。なかなかBeOSの売り込みが進まないBe社は、BeOS開発版である「BeOS PreviewRelease」をMac互換機を作っていたパワーコンピューティングにライセンスを行うなど、挑発的とも取れる行為を行うようになった。
1996年の11月頃、アップルが次期OSを外部に求めているという話を知ったNeXT社のエンジニアは、スティーブ・ジョブズに打診。公表されてはいなかったがNeXTはハードウェアから撤退し創業以来初の黒字となっていたものの経営状態は良好とはいえず、ジョブズはこの話を受けてアップルとアメリオに対してOPENSTEPを売り込んだ。ジョブズは12月上旬に、1985年以来初めてアップル社内に入り、アメリオら首脳陣と話し合いを行った。12月10日にはBeOSとOPENSTEPの比較プレゼンテーションが行われたが、勝利を確信していたガセーがほとんど事前準備をしていなかったのに対し、周到に準備をしたジョブズがカリスマ的なプレゼンテーションを行い、ガセーは敗れ去った。12月20日にアップルがNeXT社を4億ドルで買収することを発表し、次期OSの基盤技術としてOPENSTEPを採用すると発表した。
1997年2月に正式にNeXT買収が成立し、アメリオの要請も有りジョブズはアップルに非常勤顧問という形で復帰した。この時、アメリオからプレゼントされた20周年記念Macintosh(20th Anniversary Macintosh)を窓から投げ捨てたという噂が真しやかに囁かれた(ちなみにウォズにもこの記念すべきMacintoshがプレゼントされた)。
アップルに復帰したジョブズは、取締役を巻き込み、アメリオを追放すべく策を企てる事となる。7月にアメリオが辞任する事となるが、それ以前からジョブズは徐々に復権していった。アメリオ辞任に伴い、取締役会はジョブズにCEO就任を要請したが、彼はこれを拒否し「責任がそれほど大きくない一時的なことであれば構わない」と言い、暫定CEOとして就任する事になる。
一方、アメリオによるリストラは、このころようやく成果を上げ始めていた。膨れ上がった研究開発費は大鉈をふるわれ削減されていたし、複雑になっていたMacのラインナップも整理されつつあった。低迷を続けていたNewton事業を別会社に分離し、アップル本体はMacintoshに集中できるようになった。1997年7月にリリースされた「Mac OS 8」は、久々の大ヒットとなり、Macユーザーの間に広く受け入れられた。Coplandによる革命的進化を諦め、Mac OSの漸進的改良を進めるという方針が功を奏してその後のMac OSの開発は順調に進み、1998年にはMac OS 8.1をはさんでMac OS 8.5、1999年にはMac OS 8.6、Mac OS 9と、メジャーアップデートとマイナーアップデートが交互に半年ごとにリリースされた。これらはアメリオによるプランをジョブズが踏襲したものである。
ジョブズは、その思惑通りに事を進めて行く中で、士気を上げるため従業員のストックオプションの引き下げを取締役会に提案した。しかし、取締役会がこれを否定すると、ジョブズは取締役全員に辞任を迫った。結局、マイク・マークラを含む取締役陣は、そのほとんどが辞任する事となる。代わりに、オラクルのラリー・エリソン、インテュイットのビル・キャンベルらを取締役に迎え入れ、取締役会はほぼジョブズ寄りのメンバーに再構成された。
ジョブズは1997年同年マイクロソフトと特許のクロスライセンスおよび業務提携を結んだ(アメリオがビル・ゲイツと長らく交渉してきた中で頓挫した内容であった)。アップルはNetscape Navigatorに代わりInternet Explorerを標準ウェブブラウザとしてバンドルする事と引き換えに、マイクロソフトはMicrosoft OfficeをMacintosh用により一層最適化させ、更にMacintosh版とウィンドウズ版を同時リリースするということである。更にマイクロソフトはアップルに対し1億5000万ドル以上と言われる出資(額は非公表、議決権のない株式を発行)を行った。そしてボストンで行われた1997年のMacworld Conference & Expoでは、ジョブズの基調講演の最中にゲイツがスクリーン中に登場し、それらの提携を発表する事となる。歴史的和解とも取れるこのコンピュータ業界の大物同士の両者の演出は、発表された提携内容よりも話題性の方が大きく報道され、関心の深い者には良くも悪くも波紋を呼ぶ結果となった。
かねてから開発が進んでいたPowerPCの新たな製品としては、低価格ながら従来のハイエンドチップを上回る性能を持つPowerPC G3を発表。モトローラとIBM、アップルの共同開発で進められたこの次世代チップは、新たなMacに搭載され、Power Macintosh G3として発売される。またG3の発表と並行して「赤字の元凶で共食い競争でしかない」とされたMacintosh互換機メーカへのMac OSライセンスを順次停止して行く事も決定。そのうちの1社であるパワーコンピューティング社を買収し、アップル自身がオンライン直販を行うことを決める。これが後にApple Store として展開して行く事となる。
1997年11月には、分離されたNewton事業をアップルに戻す形で清算した。同じ頃、アップルは“Think Different.” キャンペーンを大々的に開始する。この"Think Different."では各界の偉人・著名人をCMに起用し、アップル自身のイメージ転換戦略が計られた。
1998年、PowerBook G3を発表。複雑な曲線を多用した斬新なデザインは従来のPowerBookと一線を画すものであり、ジョブズの製品に対する美意識が現れた初めての製品としてMacユーザーの関心を呼んだ。同時期にアップルのソフトウェア部門の別子会社であったクラリスをファイルメーカー社と改名し、FileMakerの開発・販売に専念させ、クラリスワークスに代表されるその他のアプリケーションの開発・販売権をアップルに戻す決定もなされる。
ジョブズは1998年5月に、Worldwide Developers ConferenceでiMacを発表する。このiMacは無骨なベージュ色の機械の塊ではなく、ポリカーボネイト素材をベースに半透明(トランスルーセント)筐体を採用した、人間の感性に呼びかけるデザインテーマの製品であった。このデザインは視覚的にも訴えかけていたが、ボンダイブルーなる青緑のカラーリングにマスコミはこぞって賞賛を送る事になる(デザイン界では意見は二分されたが、その年のグッドデザイン賞では金賞を獲得)。iMacの存在意義はそれだけでなく、単純明快なコンピュータである事を示すべく、それまでのSCSIインターフェイスやRS-422シリアルポート、ADB等を廃止し、当時のPC/AT互換機で採用が始まっていたUSBを新たに標準として採用した。
更に、ベージュや白だったコンピュータ業界を否定する様にトランスルーセントデザインを採用する事で、ジョブズはこのiMacにも似合う周辺機器が開発される事を見越しており、サードパーティ各社はこぞって新製品や現行品の改訂版として同様の半透明素材を採用した製品を発表した。アップルは後にこのiMacのリビジョン改訂を行い、5色になったiMacは"Candy"と名付けられ、色名も"ブルーベリー"、"タンジェリン"、"ストロベリー"、"グレープ"、"ライム"の名称が与えられる。その後もカラーテーマを替えて人目を惹き、それに付随する様にスロットローディングタイプのCD-ROMドライブを採用したり、Power Macintoshにしか与えられていなかったFireWireポートを採用する等でヒットを続け、iMacはアップルに久しぶりの大きな売り上げをもたらした。
iMacの特徴はそれだけでなく、初代Macintoshから続くコンパクトマックの特徴であった"取っ手"を復活させ、発表時にはiMacの画面に"hello(again)"と表示させていた事も、アップルの原点回帰を印象付ける結果となった。(初代Macintoshの発表時、その画面に"hello"と表示されていた事からの引用)
Rhapsodyがサードパーティーに受け入れられないと判断すると、Macintoshで用意されている APIのうち、使用頻度の高いAPIを抽出してCarbonとよばれるAPIをRhapsodyへ採用することを発表する。これにより次期OS Mac OS Xへの移植を促進させることを期待した。CarbonとはMac OSのAPIをRhapsodyに提供するものである。もし、サードパーティのソフトウェアがCarbon内のAPIだけで動いている場合、再コンパイルすることなくMac OS X上で動作する事になる。
Carbonは、元々Mac OS上のQuickTimeをMicrosoft Windowsに移植するために作られたと言われている[要出典]。膨大なQuickTimeを一から、Rhapsody上で作り直す手法をアップルは取らなかった(ようやくSnow Leopardで作り直す)。Mac OSにありRhapsodyに欠けているAPIを追加する事により、Windows同様にRhapsody上でそのままQuickTimeが動くはずだ、という考え方を採用した。Carbonとは、Mac OS Xに提供された元々はMac OS由来のAPI群であった。
Rhapsodyは元々「BlueBox」と呼ばれるMac OS 8.5をベースとした仮想環境と、「YellowBox」と呼ばれるOPENSTEPをベースにしたAPIと、BSDとMachをベースにしたカーネルによって構成されていた。その内のYellowBoxは基本的にOPENSTEPのAPIであり、そのOPENSTEPはカラム表示やウィンドウシステム、またDockなど、登場時のUIは革新的な物であった。そのMac OSにも引けを取らない使い易さと、UNIXベースの安定さを兼ね備え、YellowBoxを備えたOSはMac OS X Server 1.0としてリリースされる事になる。同時に、Mac OS 8.5との互換性及び共存性を持たせる意味で、Mac OS X ServerとMac OSのデュアルブートを可能にしており、PCIバスを持つPower MacintoshやG3チップを積むPower Macintosh G3でサーバ用OSとして動作した。
2000年9月13日には、次世代オペレーティングシステムであるMac OS X Public Betaを発表した。Mac OS X Server 1.0がアイコンや内部構造、またシステム自体に色濃くOPENSTEPの名残を残していたが(Finderの代わりにOPENSTEPで用いられていたWorkspace Managerを利用)、新たなMac OS XはAquaという表現方法を採用し、Mac OS X Server 1.0ともMac OSとも全く違う、大きく変わった外観を持っていた。奇麗なGUI表示となったMac OS Xだったが、大きく変わった操作性についてユーザから戸惑いの声が上がった。
2001年、Mac OS X v10.0 (Cheetah)を発表。アップルは、Macintoshを核に様々なデジタル機器を連携させる「Digital Hub」という構想を打ち出した。
2001年、Mac OS X v10.1 (Puma)を、Mac OS X v10.0の登場からわずか7か月で発売。10.0からの無償アップグレードサービスが行われる。10.0に欠けていた様々な機能が追加され、実用的に使える初めてのバージョンとなった。マイクロソフト、アドビなどから少しずつ対応ソフトがリリースされ始め、先進的ユーザから受け入れられる。
2002年、Mac OS X v10.2 Jaguarを発表。事実上、このバージョンが現在に続くMac OS Xの完成型と言える。このバージョンから少しずつ旧ユーザにも受け入れられたようである。
2003年、Mac OS X v10.3 Panther iPodの売れ行きの好調さ、デジタルカメラや無線LAN環境の普及により、当初の路線「Digital Hub」が実現したと言える。標準機能でWindowsのネットワークに参加できるようになった。Finderも改良され、カラーラベルが追加されるなど、よりマックライクになった。Mac OS Xでも大手印刷会社への入稿受け入れが整ったため、遅れていたデザイン、出版分野への導入が徐々に進み始める。またライセンス使用料の追加がないクライアント無制限のMac OS X Server搭載の1UサーバXserve導入とディスクレスNetBoot機能が評価され、東京大学[7]、東京女子大学に大量導入された。
2005年4月29日、Mac OS X v10.4 Tiger発売。システム内部が大きく進化した。システムに統合されたデスクトップ検索機能Spotlight、ダイナミックHTMLベースのアプリケーション実行環境Dashboardのほか、200 以上の新機能を搭載した。セキュリティ機能が充実し、あおぞら銀行[8]、神戸大学にNetBoot端末としてiMac G5が大量導入された[9]。
2008年現在の最新バージョンはMac OS X v10.5 Leopardである。
2001年、それまで主流だったフラッシュメモリ型とは一線を画す、大容量ハードディスクドライブ型携帯音楽プレイヤーiPodを発売。当初は価格の高さにより売れ行きを疑問視する声が少なくなかったが、直感的な高い操作性と、管理ソフトiTunesとの抜群の連携機能もあり、徐々に売上を伸ばす。
当初はMac版しかなかったiPodであるが、後にWindows版のiPodも発売される。その後、Windows用、Mac用といった区分けはされなくなり、Windows向けiTunesが提供されたころからヒット商品となる。そして廉価版とも言えるiPod miniを登場させた事で爆発的にヒットする。 さらに2003年には、オンライン楽曲販売のiTunes Music Store(現在のiTunes Store)を開始。2004年にはiPodをヒューレット・パッカードにライセンスするなど、携帯音楽市場で、米国を中心に独占的な地位を確保するに至った。日本でもウォークマンを圧倒し、2003年以降一貫してデジタル携帯音楽プレーヤーのシェア1位となる。iPod miniの後継モデルとしてiPod nano、またシャッフル再生というコンセプトをメインに据えることにより低価格化とより一層の小型化を実現したフラッシュメモリ型のiPod shuffleも発売され、人気を博している。
iTunes Music Storeは日本においては、2005年8月4日より開始された。登録楽曲数100万曲、1曲150円か200円という低価格で始まり、開始よりわずか4日で100万曲ダウンロードを達成する。ポッドキャストと呼ばれる新しいデジタル配信媒体を構想し、テレビよりも技術革新が進まないラジオのデジタル化に革新をもたらすことが期待されている。現在アップル社において最も収益を上げている部門であり、Macにもそのハロー効果が及びはじめている。
iPodが登場した当初は、現状のような大成功を収めると思っている関係者が多かったわけではない。初期には価格の高さ、利用にはパソコンが必須となるコンセプトが理解されなかったことにより、懐疑的な意見が多くあった。しかし2001年前後にアップルが提唱していたコンセプト「デジタルハブ」(多くのデジタル機器の中心にパソコンを据えるというコンセプト)構想が時宜を得て、iPodは携帯型音楽プレイヤーの代名詞となった。
2007年1月9日、アップルは新製品iPhoneの紹介とともに携帯電話産業へ進出した。iPhoneは高機能携帯電話+iPod+インターネット端末と発表され、マルチタッチスクリーンなど先進的でユニークなデザインが話題を呼び、iMac、iPodに続き世界で人気商品になった。
その後iPhoneのOSはMac OS Xベースであることが公表され、2008年6月にはiPhoneはSDKが公開されスマートフォンとなる。アップルにとってはNewton以来の実質的なPDAへの復帰である。2008年6月9日には、第三世代通信規格のUMTS、高速通信のHSDPAやA-GPSに対応した、iPhone 3Gが発表された。
Apple が創業されたときのロゴマークは、ニュートンがリンゴの木に寄りかかって本を読んでいるところをモチーフにした絵(ロン・ウェインのデザイン)であった。しかしこれでは堅苦しいと考えたスティーブ・ジョブズは、レジス・マッケンナ社のアートディレクターロブ・ヤノフに新しいロゴマークのデザインを依頼する。ヤノフは、シンプルな林檎の図案の右側に一かじりを加えた。「一かじり」を意味する “a bite” とコンピュータの情報単位の “byte” をかけたのだという[10]。最初はモノクロだったが、ジョブズが、Apple IIのカラー出力を印象づけるため、カラー化を指示し、6色の横縞が追加された。1997年にジョブズが暫定CEOとしてAppleに復帰し、IBMライセンスを受けるまでの間は、6色で塗り分けた横縞が入っていた。2006年現在、現CEOジョブズの働きかけにより、単色の林檎のデザインが使用されている。
1985年、芸術家でポップアートの旗手として有名なアンディ・ウォーホルは、Appleとのコラボレーションにより6色アップルのMacintoshロゴマークをモチーフにした作品「APPLE」を発表。没前の代表作である。
コンピュータ企業には多い傾向だが、特にいわゆるWintelに対して挑戦的なCMを製作する。IBMがパソコン業界に参入したときは「Welcome!」と出迎え、ファイル名が8.3形式の文字の制限が緩和されたWindows 95の発売に対し広告で『C:\ONGRTLTN.W95』(「congratulations Windows 95」を8.3形式で無理矢理表現したもの)と皮肉った祝辞を送り、発熱量の多いインテルチップが高温で燃えるようなCMも作っていた。
そんなAppleのCMでとりわけ話題になったものがある。それは1984年に製作され、スーパーボウルの試合中に放送された。タイトルは、前述の通り初回放送された当年に由来した「1984」。その内容は、「1984年1月24日、Apple社はMacintoshを発表いたします。そして我々は、今年1984年が小説『1984年』に描かれているような年にならないということをお目にかけましょう…」と言うもの、このCMは、映画「ブレードランナー」等を手掛けた監督・リドリー・スコット作によるもので、ビッグ・ブラザーなる独裁者を東海岸の企業(IBM)に見立てており、闇を支配する独裁者を打ち砕くという内容だった。センショーナルな内容のこのCMは数々の賞を総ナメにし、これ以降のAppleのCMセンスが確立されたとも言える。
なお、このCMは前述で述べたように、スーパーボウルで1度だけ放映されたものだが、後に期間限定で蘇った[11]。
2006年よりアメリカおよび欧州で、"I'm a Mac", "I'm a PC" の台詞から始まる、"Get a Mac."と呼ばれるCMを放映している。それにはカジュアルな服装のスティーブ・ジョブズ似の青年(Mac)と背広にネクタイのビル・ゲイツ似の中年(PC)との二人のショートコント仕立てで、PC との比較広告を行う。他の国では基本的に米国版(フランス・ドイツ・イタリアでは各言語に吹き替えられている)を流しているが、日本と英国では米国とは別バージョンのCMを放映している[12][13]。日本ではコンセプトを継承しつつお笑い芸人ラーメンズを起用したものとなり、内容も異なる。この CM は十数編近くあるが、いずれも PC のウイルスに対する脅威(Macではウイルスが無いような表現をしている)、マルチメディアへの弱みや「玄人向け」イメージを痛烈に皮肉る内容である。
日本法人は1983年6月21日にアップルコンピュータジャパン株式会社 (Apple Japan, Inc.) として設立され、その後1997年にアップルコンピュータ株式会社に、さらに2007年3月1日にアップルジャパン株式会社へと改称された。1996年10月までの所在地は東京都渋谷区千駄ヶ谷。
代表取締役には、2004年後半より、ライブドア(旧)の設立者で代表取締役兼CEOであった前刀禎明マーケティング担当(米Vice President兼)(2006年7月に退社)と日本オラクルの取締役であった山元賢治セールス担当(米Vice President兼)の2人が就任。2006年8月以降2008年1月現在は山元氏のみが代表取締役となっている。
前任は、1997年4月11日に就任した原田泳幸(現 日本マクドナルドホールディングス代表取締役兼CEO)であった。ちなみにこの原田氏は、以前は日本NCRで取締役を務めており、長年のMacユーザでもある。その原田氏がアップルから日本マクドナルドに移籍した事に関し、一部では「Macからマックへ移籍」と話題にもなった。
歴代の日本法人社長は、サイバーステップ代表取締役社長の武内重親[14][15]、日本通信代表取締役社長の三田聖二[16]、日本BEAシステムズ代表取締役社長の志賀徹也[17]など。
日本法人設立前のApple II 時代は代理店は数社あり、文京区本郷にあるESDラボラトリが最大手で、BMCインタナショナルなどが日本語マニュアルなどを作成して販売していた。日本語版Apple II であるj-plusを投入する際に、アップル本社は両社を切り、東レを総代理店とした。数年後、東レからアップルコンピュータジャパン設立委員会に移管し、日本法人が設立されるまでキヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)がほぼ総代理店を務めていた。日本法人設立後も、キヤノン販売(ゼロワンショップ)でのMacintosh独占販売はしばらく続いたが、一般消費者向け量販シリーズであるPerfomaシリーズ発売の1993年頃に、大手家電量販店に販路を拡大、Macintoshの販売はこちらが主体となり、キヤノン販売は2002年頃までにアップル製品を含む一般向けコンピュータ販売事業(ゼロワンショップ)から撤退した。
1999年12月7日、アップルはiMacやiBookの販売価格を小売店に指示したという独占禁止法の違反容疑で公正取引委員会から立ち入り調査[18]を受け、2000年10月3日には独占禁止法違反の疑いで警告[19]を受けている。
直営店であるApple Store は、米国外初進出となるアップルストア銀座 (Apple Store, Ginza)を皮切りに、日本国内に7店舗を出店している。なお、Apple Storeは日本法人でなく米国法人の直営である。アップルの新製品など商品入荷について、一般小売店よりも優先的にApple Storeに回されることがある為、一部の小売店やユーザからの批判もある。
これまでApple Storeで展開してきた全ラインアップの展示・販売方法のスタイルを継承した店舗を、家電量販店のビックカメラ有楽町店本館5階にオープンさせた。今後も家電量販店内への出店を進める予定。この場合店頭販売スペースのレイアウトや、商品知識など、直接のガイドラインの指導が行われている。
詳細なスペックについては個別の製品記事および#外部リンクのアップル社サイトを参照。
オーウェン・W・リンツメイヤー・林 信行 『アップル・コンフィデンシャル2.5J(上)・(下)』 武舎 広幸・武舎 るみ、アスペクト、2006年。ISBN 978-4757212541・ISBN 978-4757212558。
アップルコンピュータ はてなキーワード より引用 » [ 引用元 ]
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